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真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。 甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。 軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。 == 生涯 == === 出自 === 天文16年(1547年)、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれる。生誕月日は不明〔。幼名は源五郎。 一説に天文14年(1545年)生まれとする説もある〔『藩翰譜』〕。ただしこちらの説は後世に作られた系図注記や編纂書によるものであり、余り信頼性はないとされる〔。昌幸は三男であり、同母兄に信綱・昌輝がいたため、生まれた時点で真田家の家督相続の権利は無かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「真田昌幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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