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真田氏 : ウィキペディア日本語版
真田氏[さなだし]


真田氏(さなだし)は、信濃国豪族として興った氏族である。
== 起源 ==

江戸時代に作成された『真田家系図』〔弘化4年(1847年)6月に書き上げられた。(笹本正治 2009年 4ページ)〕に拠れば、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子という真田幸隆〔「幸隆」の諱は系図上に見られるが、確実な文書からは「幸綱」であることが指摘される。〕が小県郡真田郷を領して真田庄松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったという。
近世には、幕府からの求めもあって大名の多くが自家の系図づくりを行い出自を名族に結びつける傾向にあり、真田氏系図も信州松代藩主家となった真田家が作成したものであることから、真田氏が清和源氏の出であるとする説は疑問である。そもそも祖宗としている海野氏滋野氏嫡流を名乗っているが、出自を清和源氏とすること自体がこれと矛盾する。海野氏のと関係についても、自らを信濃の名族である滋野氏の嫡流である海野氏の傍流とし、出自を結びつけた可能性があり、こちらにも疑問符が付く。
他には、真田郷が古代の官牧地域であることに着目し、国牧管理者の大伴氏が土豪化して真田を名乗ったとする説。また真田家の家伝に百済王の子孫とする一説(真武内伝)もあるが、これを出自とするのは不自然である。
滋野氏三家系図』では、鎌倉時代中期の海野幸氏の子・長氏の子の幸春を「真田七郎」 としている。これが系図における真田の初出である。応仁2年(1468年)に起きた海野氏幸村上頼清の戦い(海野大乱)では、真田郷の洗馬城が戦場となっており、この時期に真田氏が存在していれば、この戦いに巻き込まれていたことが考えられるが、その史料も無いので研究が必要である。
大塔物語』には、室町時代応永7年(1400年)に信濃守護小笠原氏に対する国人領主の抵抗として起こった大塔合戦において、大文字一揆衆の大将の一人で、滋野三家の一つ禰津氏根津氏)の禰津遠光の配下に「実田」の名が見られ、これが「真田」の当て字とする説が現実的である。「実田」を「サナダ」と読むとすれば真田氏の初見となる〔笹本正治 2009年 3ページ〕。旧真田町(上田市)に真田・横尾・曲尾などの地名・集落があったことなどから、一つの集落を領する程度の小土豪だったと推定できる〔。
また吉沢好謙が延享元年(1744年)に著した『信陽雑志』によれば永享12年(1440年)の結城合戦に参陣した禰津遠光の配下には、真田源太・源五・源六の名が見られる〔笹本正治 2009年 4ページ〕。これらのことから、おそらく真田氏は名族滋野三家(海野・望月・祢津)である根津氏の支流だったであろうと考えられている。
はっきりしているのは、戦国時代のはじめころ、信州小県郡の山間にある真田郷に真田幸隆(幸綱)と名乗る在地の土豪がいたということである。
高白斎(こうはくさい、駒井政武)〔武田信玄の近習(笹本正治 2009年 2ページ)〕が記した『高白斎記』(別称『甲陽日記』)の天文18年(1549年)3月14日の条に「七百貫文ノ御朱印望月源三郎方へ被下候、真田渡ス、依田新左衛門請取」〔七百貫文の御朱印望月源三郎方へ下され候、真田渡す、依田新左衛門請け取る〕と出ている。ここに出てくる真田氏が幸隆である〔笹本正治 2009年 2ページ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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