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真田紐 : ウィキペディア日本語版
真田紐[さなだひも]
真田紐(さなだひも)は、縦糸と横糸を使い機で織った平たく狭い織物の紐。漢語では「絛紐」(さなだひも)と書くこともある(wikt:絛)。
一重織り・袋織りがあり、材質は木綿正絹を使う。
主に茶道具桐箱の紐・の下げ緒・着用時の紐・帯締め帯留用の紐・荷物紐等に使用する。
特徴は伸びにくく丈夫なので重いものを吊ったり、しっかりと物を縛る事に使う。
数多くの柄があり、一部は家紋の様に家・個人の決められた柄があり個人・集団の認証・作品の真贋鑑定に使われている。
== 歴史・名前の由来 ==
起原は定かではないが、チベットの山岳民族が家畜の獣毛を染め腰機を用い織った細幅織物が仏教伝来と共に海路日本に入ってきたものが、停泊地の沖縄地方ではミンサー織りになり、本州では綿を草木で染め織った細幅織物となり後の真田紐になったと言われている。
関ヶ原の戦い後に九度山に蟄居していた真田昌幸信繁父子が真田紐を作製し、生計を立ていたという俗説がある。真田紐は真田打ともいい、ひらたく組み、または織った木綿の紐のことである。『安齋随筆』によると、真田紐のくみ方は、九度山に蟄居中、正宗、貞宗の脇差の柄を巻くのに作ったのが始まりで、そこから真田父子の発明という真意不明の逸話が生み出された。真田氏の発祥地上田付近も上田縞などで知られる織物の産地であり、九度山も織物の産地であることからこのような逸話が誕生したと考えられる〔小林計一郎「日本一の兵 真田幸村」(小林計一郎編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年)87頁〕。
真田紐は名前から真田家の領地である長野県を主要産地と思われているが、戦国時代の実際は全国各地の武将が軍需物資として製作・使用していた。当時、徳川の天下統一に伴い地方の庶民には親豊臣・反徳川的風潮が根強く、最後まで徳川に苦汁をなめさせた真田を支持・美化する動きがあり真田紐を一つの象徴とする様になったと言われている。また、「紐」を意味するチベット周辺の言語「サナール」が転じたとする説や平安時代に日本に入ってきたとされる真田紐が当時は「さのはた(狭織)」と呼ばれていた為「さのはた」が「さなだ」に転化したという説もある。
中国から日本の宮中に伝わったと言われる組紐に対し庶民武士が常用したのが真田紐である。経糸のみで「組む」組紐は構造的に伸びやすく、装飾的に使われる組紐に対し縦糸と横糸を機で「織る」真田紐は非常に実用的だった事が窺える。
平安鎌倉時代の武将は宮廷色の強い、飾りの多い甲冑を身に着けていたが、庶民や地方豪族から出て来た武将が登場した戦国時代には、真田紐等一般庶民が使って来た道具を甲冑に使用する事により、より動きやすく実戦的な甲冑となり、これが結果的に戦国時代における勝敗を左右し、ひいては時代の変わり目の一因となった。
戦国時代中期、千利休の発案で当時武将が使っていた刀の下げ緒が非常に伸びにくく丈夫であることから、それまで鹿の紐などを使っていた桐箱に使用する様になった。
元来刀の下げ緒等に使われていた時に各家の好みの柄が出来、これを遺品回収の折の目印にした事がのちに茶道具では約束紐と呼ばれる各流儀・各作家・各機関でのみ使う事が出来る独特の柄を制定する文化の基となった。また桐箱の結びは武将同士の通信に使われた箱に結ばれていた封印結びが基と言われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「真田紐」の詳細全文を読む



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