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真篠砦(まじのとりで)は、山梨県南部町福士真篠に所在する砦。戦国時代末期の砦(日本の城、山城)。「真篠」は字名で、真篠城とも呼称される。 所在する南部町福士は県南部、河内地方の山間部に位置する。河内地方を南流する富士川右岸の山麓に立地し、標高は259メートル付近。近世には福士村が成立する。 東西50メートル、南北40メートルほどの規模で、山麓や尾根上に遺構が分布する。山頂には主郭が位置し、周囲を土塁に囲まれる。北側・西側・南側には虎口を有する。北西に延びる尾根には5つの平坦面が連なり、先端部には竪堀を伴う尾根切が見られる。また、南に延びる尾根上には東西40メートル、南北50メートルの平坦地があり、先端には連続した竪堀が見られる。主郭の東側斜面には数段の平坦地があるが、耕作による破壊を受けている。現在は竹林や檜木林となっている。 1936年(昭和11年)刊の『南巨摩郡誌』では信玄期の烽火台とし、武田家臣の足軽大将である原大隅守(虎吉)が警護し、真篠勇太夫の居跡となったとしているが、その根拠は不明〔『山梨県の地名』、p.783〕。連続した竪堀の特徴から戦国末期の築造と考えられている〔『山梨県の地名』、p.783〕。 天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡し、織田・徳川方に属した河内領主の穴山信君は上方へ赴いていたが、同年6月の本能寺の変により信君は横死した。三河国岡崎城へ逃れた徳川家康は無主状態となった武田遺領をめぐる天正壬午の乱が発生し、家康は6月6日に武田遺臣の駿河衆・岡部正綱(次郎左衛門)に命じて穴山氏の本拠である下山館(身延町下山)で城普請を行い、駿州往還・富士川沿いに菅沼城を築城する。同様に、真篠砦も岡部正綱、菅沼定政による修築の可能性も考えられている〔『山梨県の地名』、p.783〕。 真篠砦から南2キロメートルほどには「城山」があり、『甲斐国志』では「福士城山」として記載している。 == 参考文献 == * 『日本歴史地名大系19 山梨県の地名』平凡社、1995年 * 『日本城郭体系8 長野・山梨』新人物往来社、1980年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「真篠砦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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