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矢尾板 貞雄(やおいた さだお、1935年11月28日 - )は、日本の元プロボクサー、ボクシング解説者。東京都渋谷区出身。OBF東洋フライ級、日本フライ級王者。右ボクサータイプ。後に競馬評論家としても活躍した。 == 来歴 == 1955年9月28日、後に日本王者となった野口恭相手にデビュー戦を行い、引き分けとなった。ボディに打たれ脆い面があり、6回戦時代には2連続KO負けの記録があるが、その後は復調し、強豪三迫仁志に判定勝ちする金星を挙げて注目される。その後は、速いフットワークを武器に、KO勝ちは少ないものの、ヒット・アンド・アウェー戦法で日本王座、東洋王座を奪取、東洋では敵なしを誇った。 1959年1月には、世界フライ級王者パスカル・ペレスと10ラウンドのノンタイトルマッチで戦い、判定勝ちした。王者の強打をフットワークで封じたもので、ペレスは試合後に「矢尾板はマラソンランナーになればいい」と負け惜しみを言った〔百田尚樹、「黄金のバンタム」を破った男、PHP文芸文庫、2012年、ISBN 978-4-569-67916-7、85-86ページ。〕。この勝利により、矢尾板は白井義男以来二人目の世界王者になると期待されるようになった。しかし同年11月、大阪市の扇町公園大阪プール特設リングで行われたペレスとのタイトル戦では、第2ラウンドにダウンを奪ったが、第13ラウンドにノックアウト負けし、王座奪取はならなかった〔百田尚樹、86-87ページ〕。 その後は東洋タイトルを防衛しながら再挑戦のチャンスを待ったが、ノンタイトル戦でも内外の強豪と対戦した。1961年7月には1階級上(当時)のバンタム級世界王者エデル・ジョフレ(ブラジル)と敵地で対戦し、10回KO負けしたものの、9回までポイントをリードするなど、最強と言われた王者を苦しめた〔百田尚樹、89ページ〕。 1962年には、1月に2階級も上(当時)の東洋ジュニアフェザー級王者・坂本春夫を4回でKOし、更に3月には、メキシコのジョー・メデルと対戦した。メデル戦はフライ級とバンタム級の世界1位同士の対決として話題を呼んだが、僅差の判定で敗れた〔百田尚樹、91-92ページ〕。その後もフライ級では世界1位を維持し、当時の世界王者ポーン・キングピッチへの挑戦が決まった。矢尾板ならばキングピッチに勝てるだろうと期待されていたが、1962年6月の東洋フライ級を防衛後に突然引退を表明し、リングを下りた〔百田尚樹、95ページ〕。 世界戦を目前にして引退した表向きの理由は膝の故障とされたが〔、真の理由は、所属ジムの会長だった中村信一との確執にある〔百田尚樹、96-97ページ。〕。中村はボクシング理論で高い評価を受け、また公私に亘ってジムの所属選手の面倒をよく見た。しかし中村は選手が自分の意向に従わない場合や試合に敗れた場合には、選手に暴力を振るったり激しく罵倒したりすることがあり、また酒癖も悪かった〔。矢尾板は1959年のペレスとの世界タイトル戦で敗れた直後、中村に激しく罵られ、精神的に深く傷ついた〔百田尚樹、98-99ページ。〕。その後矢尾板は不満を押さえて中村の下で選手を続けていたが、1962年の東洋フライ級防衛戦直前に体調不良から練習を早目に切り上げた夜、酒に酔った中村に叩き起こされて「いくじなし」「引退しろ」と執拗に罵倒されたことで我慢の限界に達し、引退を決意したという〔百田尚樹、101-102ページ。〕。中村に限らず、当時のボクシング界ではジム会長が選手を私物化する傾向にあった〔。「選手と会長は対等な契約関係であるべきだ」と考えていた矢尾板は、日本ボクシングコミッションに手紙を出して本当の引退理由を説明したが、問題がボクシング界全体に波及するのを嫌った日本ボクシングコミッションは手紙のことを公表しなかった〔百田尚樹、103ページ。〕。 引退後はボクシング評論家となった。フジテレビジョンの『ダイヤモンドグローブ』専属解説者やサンケイスポーツの評論家を務めている。また競馬エイトでも競馬予想を行っていた時期もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「矢尾板貞雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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