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石丸重美 : ウィキペディア日本語版
石丸重美[いしまる しげみ]

石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日〔『正四位勲二等石丸重美叙勲ノ件』〕(1864年2月21日) - 大正12年(1923年10月18日〔『官報』第3351号、大正12年10月23日。〕)は、日本の鉄道官僚、工学博士貴族院勅選議員
==経歴==
豊後国臼杵城下(現在の大分県臼杵市)に臼杵藩士石丸袈裟蔵の長男として生まれる〔『大分県人士録』pp.199-200〕。1884年明治17年)、上京して三菱商業学校に入学するが間もなく廃校となったため、大学予備門、第一高等中学校を経て、1887年(明治20年)に東京帝国大学工科大学に入学した〔『大正人名辞典』P.1539〕。1890年(明治23年)に卒業した後は内務省技師となり、秋田県庁に勤務した〔。1892年(明治25年)に逓信省に転じ鉄道技師となった。1894年(明治27年)、朝鮮出張を命じられ、日清戦争中の朝鮮半島の鉄道管理に従事した〔。翌年に帰国して国府津保線事務所長に任命され、難工事である篠ノ井線建設を担当した〔。1900年(明治33年)には陰陽連絡線米子出張所長となった(山陰線支線の着工)。
その後、帝国鉄道庁(のち鉄道院)技術課長、建設課長、技監兼技術部長を歴任したが〔、1915年(大正4年)に前年12月に発生した東京-桜木町間電車開業時の事故の責任をとり退官した〔鉄道史学会編『鉄道史人物事典』日本経済評論社、2013年、34-35頁。〕。退官後の1917年(大正6年)には東京鋼材株式会社社長に就任したが〔井関九郎『大日本博士録 第五巻』発展社、1930年、工学130-131頁。〕、原敬と親しかったことにより、原内閣が誕生した1918年(大正7年)に鉄道院副総裁として復帰した〔〔。1920年(大正9年)に官制変更で鉄道院が鉄道省に改組されると、引き続き次官を務めた〔。
1922年(大正11年)6月6日には貴族院勅選議員に任じられた〔『官報』第2953号、大正11年6月7日。〕。
1923年(大正12年)第2次山本内閣が発足し山之内一次が鉄道大臣に就任すると政友会に近い石丸は次官を退任させられ、翌月に病没〔和久田康雄「木下淑夫」『日本の鉄道をつくった人たち』悠書館、2010年、228頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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