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石井 一(いしい はじめ、1934年8月17日 - )は、日本の政治家。 国土庁長官(第19代)、自治大臣(第45代)、国家公安委員会委員長(第55代)、民主党副代表、筆頭副代表、国会対策委員長、衆議院議員(11期)、参議院議員(1期)などを歴任。 自由連合幹事長で元参議院議員・日本国特命大使の石井一二は弟。甥に兵庫県議会議員の石井健一郎、前衆議院議員の石井登志郎がいる。2人とも石井一の元政策秘書であり、登志郎とは養子縁組をした。兵庫県議会議員の石井秀武は親類にあたる。 危機管理都市推進議員連盟会長。日本音楽家協会会長。上海大学顧問教授。イオンド大学(非認定大学)名誉教授。 == 来歴・人物 == タイヘイレコード社長で、後に自由民主党兵庫県議会議員を3期務めた石井廣治の長男として、兵庫県神戸市須磨区に出生。小学校5年生で、敗戦と同時に政治家を志す。 神戸市立西須磨小学校、甲南中学校を経て、甲南高等学校に入学し弁論部に所属。1957年に甲南大学経済学部を卒業した後アメリカに留学し、1960年、スタンフォード大学大学院政治学研究科を修了し、修士号を取得。同校の助手となる。帰国後、郷司浩平の伝手で、郷司が専務理事を務めていた「日本生産性本部」の職員となる。 1967年、29歳の時、第31回衆議院議員総選挙に旧兵庫1区から立候補するが落選。浪人期間中は、田中角栄の私設秘書を務めた。 続く1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・浜田幸一など)。1975年12月の三木改造内閣で労働政務次官、1976年の福田赳夫内閣で運輸政務次官に就任。運輸政務次官時代に日本赤軍の起こしたダッカハイジャック事件に政府派遣団長としてハイジャック犯との交渉に当たった。この事件に便乗して発生し、身代金強奪を目論んだ現地のクーデターに巻き込まれながらも人質の解放には成功したが、身代金600万ドルの支払いと政治犯の釈放というハイジャック犯の要求を飲む形に終わり、釈放された政治犯は現在も数人逃走中である。 1983年、第37回衆議院議員総選挙で落選。1986年、第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)で自民党が大勝し、石井も国政に復帰した。1989年、第1次海部内閣の国土庁長官として初入閣。しかし、一方で1990年には、ハワイの未公開資産保養地所有が問題となった。 また、1991年には、全国日朝友好促進議員連盟訪朝団の総団長として北朝鮮を訪問している。竹下派分裂に際しては羽田孜・小沢一郎側に与し、羽田派に所属。 1993年、宮澤内閣不信任案が提出されると、羽田派の一員として内閣不信任に同調し、自民党を離党、新生党に参加する。細川内閣が成立すると、石井は衆議院政治改革特別委員長に就任した。1994年、羽田内閣が成立すると、自治大臣兼国家公安委員会委員長に就任。 同年、新進党に参加するが、最後は小沢一郎への批判を強め、1998年の新進党解党直後は鹿野道彦を代表とする国民の声に参加した。その後、民政党を経て民主党に参加、党国会対策委員長に就任する。 1999年、民主党筆頭副代表に就任。民主党と自由党の合併が懸案となると、民主党内保守系の幹部として推進派となる。2002年、野党結集準備委員会委員長となり、民由合併を推進した。 2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙で落選。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で比例区から立候補し当選した。2007年8月、党副代表に就任。 2007年には参議院予算委員会で、公明党と創価学会が表裏一体であることを指摘し、国政選挙で公明党議員が当選した場合、衆参それぞれ300万円、600万円の献金がなされるが、その献金がどこへ入ったかは不明になっているという公明党議員のP献金なる創価学会への献金について言及した。 2009年1月20日の予算委員会での質問において首相の麻生太郎に対し、麻生自身が書いた「文藝春秋」掲載の手記に出てくる難解な漢字(それまで麻生が簡単なものも含めて、漢字の読み間違いが多かった)を「テスト」形式(「窶し」、「畢竟」など)のフリップで出し、本当に麻生自身が書いた手記なのかを迫った〔麻生首相「みぞう」、どよめく委員会 漢字テスト12問(アサヒコム) 〕。迫られた麻生は「書かせていただいた。皆さんが読みにくいのは『身を窶し』ぐらいじゃないか」と言い返し、石井は「じゃあ、なぜ『みぞうゆう』なんて言うんだ。率直に認めないとまた支持率下がるよ」と皮肉を述べた。なお、この漢字テストに対して「経済危機で政治対策を行わなければならない時期に無駄な事をやって税金を無駄にするな」と国民から批判が殺到、また民主党内の一部議員からもイメージダウンになると苦言を呈された。 2010年3月4日、厚生労働省局長らが不正関与に絡んだ障害者郵便制度悪用事件において、元厚生労働省局長の村木厚子が虚偽有印公文書作成などの罪に問われた裁判では、自称障害者団体「凛(りん)の会」から依頼を受けた石井が村木に口添えするように行ったと大阪地検が指摘、法廷において「凛の会」に依頼され石井が口添えを記した倉沢の手帳を大阪地裁は証拠採用した。一方、石井は弁護側証人として出廷し、午前中公判では「凛の会」が石井に口添えを依頼した日の2004年2月25日は「千葉県のゴルフ場に行っており不在だった」と証言したが、検察側は午後に入り「一緒に行ったという議員はその日、国会の委員会に出席していた記録がある」と指摘した。これに対し石井は「国会のルーズなシステムだが、会議録には出席しなくても記録が残る」と説明。「ゴルフに行ったのは間違いない」と反論した。弁護側によると、ゴルフ場の来場記録には石井とこの議員の名前があったといい、裁判官はこれを証拠採用した。更に石井は「この裁判は検察の倫理、検察の存在(意義)を問うている。検察は善であり公正無私であるとの面目を果たしていただきたい」と述べ、検察が自発的に何らかの責任を取るよう求めた(この法廷証言は事件を基にしたドラマ『私は屈しない〜特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日』で忠実に再現された)。出廷後の記者会見で「事件には無関係」と主張。 2010年6月7日、菅直人新執行部で再び党副代表に就任。 2011年4月14日、『東日本大震災復興予算捻出のためのODA削減案に反対する超党派連合』のメンバーとして名を連ねる〔超党派議員がODA削減反対で一致 政府に申し入れへ 〕〔平成23年4月14日第一次補正予算におけるODA削減に関する勉強会 〕。 2011年5月5日、日本・フィリピン友好議員連盟会長としてフィリピン訪問中、2人の民主党議員(生方幸夫と那谷屋正義)と共に、セント・エレナゴルフクラブで、「被災者の方から見れば『何だ』という気持ちになるでしょうね」と意識しながらも「国外であれば目につかないと思った」として、東日本大震災後初のゴルフを満喫した〔石井民主副代表らマニラでゴルフ 「目につかないと思った」 2011年5月6日 MSNサンケイニュース〕。同年5月9日、「非常に不適切なものだという認識はしていないが、よくよく考えたら、もう少し自制をしてもよかったかなというふうな気持ちはありますけれども」と表明しつつも、「一度だけ」と釈明していたが、実は複数日に渡ってゴルフを行っていたことが発覚し、兼務していた民主党東北地方太平洋沖地震対策本部副本部長の辞表を提出し、受理された〔民主・石井選対委員長ゴルフ問題 兼務していた地震対策本部の副本部長を辞任 2011年5月9日 FNN〕。 2012年にも、同様にフィリピンを訪問したが、当初の届け出では5月3日 - 6日(4日間)の訪問予定であった所、実際には4月27日 - 5月7日(11日間)の訪問であった。参議院規則では、開会中に7日間を超えて海外へ渡航する場合には本会議の議決が必要だが、無断で訪問日程を変更した〔7日間以下の訪問であれば、議長の了承のみで済む。〕。同年5月10日、この責任を取る形で、参議院議長の平田健二に参議院予算委員長の辞表を提出した。 2012年7月、離党した山岡賢次の後任として、民主党副代表に就任。 2012年10月、参院予算委員長に復帰。 2013年7月21日、第23回参議院議員通常選挙で落選。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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