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石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10日 - 2001年(平成13年)1月12日)は、日本の造船技師(専門は舶用内燃機関、造船の生産技術・品質管理などの生産管理全般)、海軍軍人(予備将校)、実業家である。最終階級は海軍中尉。従七位。とくに、戦時急造された海防艦の専門家であり、戦時中、御蔵型など40隻の海防艦を竣工させた。戦後は、南極観測船の建造にも関わった。ブロック工法(ブロック建造方式)による艦船建造の先駆者の一人。 == 経歴 == 佐賀県神埼市出身。生家は佐賀藩主鍋島家の藩祖以来の外戚家門石井家。石井自身、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂の来孫である。 神埼市立神埼小学校を経て、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀西高等学校)に進学。中学卒業後、官立神戸高等商船学校機関科(現・神戸大学海事科学部)第20期に進み、首席で卒業。在校中、海軍予備生徒機関科第51期生として、海軍砲術学校、佐世保海軍工廠、霞ヶ浦海軍航空隊等で学んだ。卒業後、1936年正式に海軍予備機関少尉に任官する。 1935年、三井物産株式会社に入社し、同社船舶部(現・株式会社商船三井)が運航していた欧米航路の大型商船に乗船勤務。当時貴重な海外渡航を経験する。1938年になると、戦時体制が本格化し、海軍省より、造船技師として軍艦建造の任務への従事を命じられ、当時、海軍艦政本部の監督下にあった日本鋼管株式会社(現・JFEエンジニアリング株式会社)鶴見造船所(現・株式会社ジャパンマリンユナイテッド横浜事業所鶴見工場)に派遣されることになった。そこでは、海軍の駆潜艇や海防艦の建造に従事し、主に生産技術・品質管理などの生産管理全般を担当し、当時画期的であったブロック工法や電気溶接といった艦船建造の最新技術を研究、実用する。このとき、艦政本部四部員の遠山光一海軍技術中佐(後の日本鋼管副社長)、同本部五部員の魚住順治海軍少佐(後の海上自衛隊海将、日本鋼管顧問)らとともに海防艦の建造に従事している。また、造船所と艦政本部との調整役としても活躍した。戦時中、御蔵型、鵜来型、丙型をはじめとする海防艦合計40隻(終戦後、復員輸送艦として竣工したものを含む)の建造に従事した。海防艦は日本海軍が太平洋戦争中最も多く建造した艦種で、その数は170隻を超えるに及び、海防艦建造はまさに一大国家プロジェクトであった。日本鋼管は戦時中、海防艦を最も多く建造したメーカーになった。とくに、海防艦鵜来は、石井たちが心血を注いで建造し、日本海軍初のブロック工法により建造された艦艇となった。ブロック工法は戦後の造船の主力工法として定着する。石井は1942年に海軍予備中尉に進級し、翌年官名改正により海軍中尉となり、終戦を迎える。 戦後は、日本鋼管株式会社鶴見造船所検査課長、同社清水造船所造機部長、造船本部船舶部次長を歴任し、海上保安庁の巡視船、海上自衛隊の掃海艇や砕氷艦(南極観測船)をはじめ、戦後の造船好況下において、タンカーや貨物船、客船などの多種多様な商船の建造に関わった。その後、1965年系列の中堅機械メーカー日本ブラストマシン株式会社(現・JFEメカニカル株式会社)の常務取締役に就任。以降、専務取締役、相談役を歴任し15年にわたって同社の経営にあたり、その発展に貢献した。 2001年1月12日死去。享年88。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井利雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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