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石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 1996年5月6日)は、日本史学者。幕末維新期対外関係が専門。 == 経歴 == 東京に生まれた。実家は栃木県安蘇郡田沼町戸奈良(現佐野市)の豪農であったという〔保谷徹「『日本開国史』を読む」(石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 407ページ)〕。 1933年東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京大学史料編纂所所員を勤め、これから約10年間、『大日本古文書・幕末外国関係文書』の編集に従事した。1930年代は、外国に所在する資料の調査・収集も開始され、国内外の1次史料をいち早く利用することが可能だった。このことが石井の研究スタイルを決定づけた〔。 戦後大阪大学教授、1953年横浜市立大学教授、1960年東北大学教授、津田塾大学教授。幕末維新期の研究に多くの成果を残した〔『幕末貿易史の研究』 日本評論社 1944年・『明治維新の国際的環境』 吉川弘文館 1957年・『日本開国史』 吉川弘文館 1972年・『明治維新の国際的環境』 吉川弘文館 1957年・『明治初期の日本と東アジア』 有隣堂 1982年・『戊辰戦争論 吉川弘文館』 1984年など〕。 石井の学風は、徹底した史料に依拠して論じる実証史学であった〔歴史学における実証主義参照〕。『横浜市史』の総括責任者として膨大な資料をまとめたことが特記される〔保谷徹「『日本開国史』を読む」(石井孝 『日本開国史』 吉川弘文館 2010年復刻版 408ページ)〕。 文学博士。1996年5月6日に没した。享年87。 孝明天皇の岩倉具視による毒殺説を唱えて原口清(当時名城大学商学部教授)と論争した。また大岡昇平の、森鴎外「堺事件」批判の論拠となったのが『明治維新の国際的環境』である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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