|
石井 昭男(いしい あきお、1955年9月26日 - )は、神奈川県三浦市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、36ページ〕出身の元プロ野球選手(外野手)。 現在は中日ドラゴンズのチーフスカウト(関東地区担当)を務める〔週刊ベースボール2014年3月24日号 P21〕。 == 来歴・人物 == 中学1年からエースとなり、東海大相模高校から東海大を経て1977年ドラフト3位で中日に入団。1987年現役引退後は中日コーチ・フロントを歴任〔。現在は関東地区担当中日ドラゴンズのチーフスカウトを務めている。 東海大相模高校では1972年、2年生の時に三番打者、左翼手として夏の甲子園に出場。しかし1回戦でエース金本誠吉を擁する中京高に完封負け。翌1973年夏は四番打者、三塁手として県予選準決勝に進出するが、桐蔭学園に敗退した〔。 卒業後に進学した東海大学では、首都大学リーグで在学中5回優勝。1976年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で斉藤明雄のいた大商大を2-1で降し優勝を飾った。翌1977年の同大会では、決勝で駒大に延長10回の熱戦の末に敗れ、準優勝に終わる。1976年、1977年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、四番打者もつとめた〔(当時のチームは原辰徳、石毛宏典、中尾孝義、江川卓、鹿取義隆、松沼雅之らをはじめとしたそうそうたるメンバーであった)。リーグ通算90試合出場、304打数95安打、打率.313、8本塁打、53打点。最高殊勲選手1回、首位打者1回、ベストナイン3回獲得。大学同期に遠藤一彦、林良孝(本田技研鈴鹿)両投手がいた。 プロでは一時レギュラーをつかみかけたが、外野フェンスに頭部を激突する負傷で長期離脱する不運もあって、主に豊田誠佑とならぶ右の代打として活躍することとなった。 1985年には、前年いずれも30本塁打を放った3番谷沢健一、4番大島康徳、5番ケン・モッカが相次いで故障で倒れる中、規定打席には足りないものの、4番で3割をマークする堂々の成績を残した〔。 指導者としても評価が高い。ファーム時代に石井にしごかれ、投手から野手に転向して勝負強い打撃と特徴的な右打ちで主力となった仁村徹などは、「僕のバッティングは、みんな石井さんに教わった」と述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井昭男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|