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石井正之[いしい まさゆき]
石井 正之(いしい まさゆき、? - 万治3年4月10日(1660年5月18日))は、江戸時代前期の肥前国佐賀藩士。島原の乱一番槍の勇将。幼名は塩童、長じて弥七左衛門と名乗る。法名は法源院日宣。妻は鍋島茂利娘。 == 来歴 == 朝鮮出身の林貞正(栄久)の子として生まれる。実父林貞正は文禄・慶長の役の時、鍋島直茂(佐賀藩祖)によって朝鮮から連行され、その後帰化した。直茂の家臣となり、医業に通じていたため、その主治医を務めた。正之は、幼少の頃、家老職の石井茂清に見込まれて養子となった。 正之は少年時代から利発で、義理堅い性格であった。ある時、養父茂清が不慮の死を遂げ、石井家の後継者を決める際、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂は、正之に家督相続を命じた。ところが、正之はそれを固辞し、茂清の実子で正之の義弟にあたる石井孝成を推挙した。その際、正之は勝茂に対し、「父茂清も、おそらく孝成を跡目にと望んでいたはずです。私は家督のお話を辞退し、無禄で奉公させてほしい」と言上。ならばと勝茂は、「茂清の知行の半分を孝成に継がせ、残りの半分を正之が継げばよい」と提案したが、正之はこれも固辞。「孝成には何の落ち度もないのに、家禄が半減するのは不憫なことです。家禄はそのまま孝成に相続させてください。私は無禄で構いません」と強く求めたために、勝茂もそれ以上の説得を諦めたが、「若輩ながら見事な心意気である」と喝破した。 島原の乱に従軍した際は、同族の石井正能とともに、敵陣一番乗りの武功を挙げる。この際、佐賀藩の軍勢は軍令がないままに戦闘を開始しており、藩の上層部は、後々幕府から軍令違反の罪を問われる可能性があることを認識していた。そのため、一番槍の者には幕府からの事情聴取があると思われたことから、勝茂の庶長子鍋島元茂は、「後々幕府からのお咎めがありましょうから、そのとき、堂々と申し開きのできる人物は石井正之をおいて他にはおりますまい。今回の一番槍は正之にお決めなさいませ」と勝茂に進言したことで、正之の一番槍の武功が公に認められることになったという。この武功によって、知行625石を拝領した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井正之」の詳細全文を読む
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