|
伊志井 寛(いしい かん、本名・石井淸一、1901年2月7日 - 1972年4月29日)は、大正・昭和期の俳優。 ==来歴・人物== 東京市に、落語家4代目三升亭小勝と竹本清之助(富沢つね)の息子として生まれるが、5歳で父と死別。17歳まで銀座へ奉公に出ていたが、1919年、大阪文楽座の竹本津太夫の門に入り、竹本津駒太夫と名乗り、舞台に立つ。 1922年、松竹蒲田撮影所に入社。野村芳亭監督の『女と海賊』などに出演。その後、帝国キネマを経て東邦映画に移る。東邦映画解散後の1927年、菊池寛に招かれて「新劇協会」に入り、『三月三十二日』、『クノック』などに主演し、新劇の星といわれるが、1928年、久保田万太郎の勧めで新派劇に加入し、喜多村緑郎の門下となる。新派劇の花形として人気を集め、花柳章太郎と並ぶ若手スターといわれる。 1938年、花柳・柳永二郎、川口松太郎らと「新生新派」を結成し、川口松太郎・泉鏡花の作品などを上演し、人気を博する。1949年には、「劇団新派」を結成し、大幹部として屋台骨を支える。『婦系図』の「主税」などを当たり役とした。 その一方、映画、テレビドラマにも意欲的に出演。TBS系の東芝日曜劇場の人気シリーズ『カミさんと私』(1959年8月 - 1972年2月6日放送、全32作)では、同じ劇団新派の京塚昌子と共演し、その好々爺ぶりはお茶の間に親しまれた。 1967年、紫綬褒章受章。1972年4月29日に肝臓癌のため死去。。折りしも国民的人気ドラマ『ありがとう』に出演中であった。同年大晦日には伊志井の功績を讃えて『カミさんと私』第32作(最終作)が再放送された。 TBSのプロデューサーだった、石井ふく子は娘(妻・三升延の娘で、伊志井との血縁関係は無い)。大辻伺郎は伊志井の付き人を経験している。弟子の一人に「金龍」こと金田龍之介がいる。俳優の石井麗子、フリーアナウンサーの石井希和は孫(石井ふく子との血縁関係は無い)。 墓所は瑞輪寺墓地。戒名は「芸海院永照日寛居士」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊志井寛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|