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石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4月27日) - 昭和19年(1944年)1月24日)は、日本の近代女子教育者の1人である。日本初の知的障害者福祉の創始者の一人。 == 生涯 == 筆子は肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父・清は幕末から明治維新にかけての志士で、明治政府では福岡県令や元老院議官等の要職を歴任し、男爵に叙せられた。筆子の叔父・渡辺昇も同じく幕末から明治維新の志士で坂本龍馬と親交を持ち、薩長同盟の周旋をした功労者である。渡辺汀は弟(父の養子)で滝乃川学園の3代目学園長である。 筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもった。そのときの教え子に貞明皇后がいた。また鹿鳴館の舞踏会にも度々参加し、「鹿鳴館の華」と評判だった。 さらに静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は後に津田が主宰していた女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となる。 筆子は同郷の高級官吏・小鹿島果と結婚するが、生まれた3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は虚弱で出産後ほどなく死亡した。その上、1892年に夫の果が35歳の若さで死去する。 その後、娘を石井亮一が主宰する滝乃川学園に預けていた経緯から学園に経済的・精神的な援助を惜しまないようになる。その過程で園長の亮一の人間性に惹かれ、再婚。知的障害者の保護・教育・自立に献身する。 当時の世情は富国強兵の政策もあって、生産能力に欠ける存在とされていた知的障害への理解は甚だ乏しく座敷牢で一生涯を送る者も少なくなかった。筆子は実際に教育現場に立つ一方、華族出身であったことを生かし皇族、華族、財界人からの支援を受けることに成功し、滝乃川学園の発展に貢献した。晩年には脳出血で半身不随となり、更に学園維持のための莫大な借金を抱えたまま夫に先立たれる。学園の閉鎖も検討するが、学園の維持こそ夫の遺志を継ぐことと奮起し1937年10月16日、76歳の高齢で2代目学園長に就任する。しかし戦時中であり、生徒や教職員の戦死など困難の続く中、学園の将来を案じつつ83歳で死去した。 その後、学園は戦争を乗り切り維持され、現在の社会福祉法人・滝乃川学園として至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井筆子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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