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石井 茂清(いしい しげきよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。佐賀藩の家老。初代藩主鍋島勝茂から偏諱を受け「茂清」と名乗る。清五左衛門、縫殿助と称する。石井縫殿家第2代当主。 == 来歴 == 龍造寺氏や鍋島氏の家臣石井茂利の次男として誕生。早くから鍋島直茂に仕え、父と共にその家老を務め、国政の事務を統括した。 文禄・慶長の役では、鍋島直茂に従って朝鮮半島に遠征し、一軍約1,000人の軍勢を率いて李惟一の軍勢と交戦し戦功があった。帰国後、直茂・勝茂父子を支え、佐賀藩草創期の藩政確立に貢献する。元和元年(1614年)、大坂夏の陣では、勝茂の使者として徳川家康と面会した。 しかし、元和7年(1621年)、同族の石井与左衛門に奸計があり、茂清は鍋島勝茂より、与左衛門を上意討ちにするよう命じられる。茂清は与左衛門の屋敷に家来の伊東彦右衛門を連れて出かけたが、茂清のただならぬ様子に気づいた与左衛門が抵抗し乱戦となった。その中、彦右衛門が助太刀するも誤って茂清を斬ってしまい、その傷がもとで死去した。 茂清の死を鍋島勝茂はたいそう惜しんで、直ちに茂清の養子正之、実子孝成を召して、家督を継ぐように命じた。家督は実子の孝成が継ぎ、正之は別家(石井弥七左衛門家)を興した。 なお、孝成以降、知行1,250石(物成500石)を有して、世襲の着座の家格に定着。また石井寄合衆の大組頭(軍団長)も世襲し、明治維新の廃藩まで続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井茂清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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