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石井 貞興(いしい さだおき、天保13年(1842年)3月 - 明治10年(1877年)10月26日)は、幕末から明治初期にかけての肥前国佐賀藩士、政府地方官。乙次、大作、竹之助と称する。 == 経歴 == 佐賀藩士櫛山弥左衛門の長男として生まれ、伯父石井忠克の養子となる。養家の石井家は、佐賀藩祖鍋島直茂の正室陽泰院の従弟石井忠教を祖とする家筋。貞興は、少年の頃から勉学に勤しみ、枝吉神陽、石井松堂に師事し、経学を修め、槍術や馬術にも秀でていた。 戊辰戦争に従軍後、明治2年(1869年)、東京に上り昌平坂学問所に学び、さらに薩摩藩の造士館にも学んだ。造士館では、桐野利秋と昵懇の間柄となる。 その後、佐賀藩に帰国し、江藤新平の知遇を得て少参事に任ぜられ、藩の重職として活躍する。しかし、間もなく辞任し、士族土着説を唱えて佐賀県長瀬村に隠遁し、田畑を耕し、家畜を飼う生活を送った。明治6年(1873年)、佐賀県庁に復帰し、権典事に任官し、間もなく大属に昇進し、県庁を牛耳るようになる。 その後、新政府に不満を持つ県庁内の旧佐賀藩士を糾合し、旧主鍋島家の資産を軍資金として流用して、征韓党を形成。江藤新平を領袖に擁して、明治7年(1874年)、佐賀戦争(佐賀の乱)を起こした。しかし、佐賀城陥落の直前に脱出して鹿児島県に逃れ、旧知の桐野利秋のもとで匿われる。明治10年(1877年)、西南戦争の勃発に際して旧薩摩藩軍に身を投じ活躍するも、敗戦後に熊本県の山中に身を隠すも逮捕された。 逮捕後、長崎に移送され、斬首の刑に処せられた。享年36。墓所は佐賀市長瀬の東光寺にある。 佐賀戦争首謀者の中で最後まで生き残り、士族最後の反乱である西南戦争まで戦ったことから「佐賀のラストサムライ」と呼ばれることもある。司馬遼太郎の小説『歳月』では、征韓党の武断派と評されているが、『江藤新平伝』などによれば、子煩悩な心優しい紳士の一面があったともされる。 なお、妻は久米邦郷の娘朗(久米邦武の妹)。次男石井八万次郎は東京帝国大学理学部出身の地質学者。三男石井力三郎は海軍少佐である。力三郎の養子石井龍猪は、台湾総督府内務局長、殖産局長、台北市長、台南州知事等を歴任している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井貞興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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