|
石井 雅博(いしい まさひろ、1960年9月4日 - )は、和歌山県有田市出身の元プロ野球選手(外野手)。 == 来歴・人物 == 箕島高校では甲子園に3回出場。2年生時のは、春の選抜に控え選手として出場。決勝で山沖之彦を擁する中村高を降し優勝〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。1年先輩に中日で活躍する二塁手の上川誠二がいた。翌春の選抜にも二塁手として連続出場。1年下の石井毅、後に阪神で同僚となる嶋田宗彦のバッテリーとともに準決勝まで勝ち進むが、福井商に敗退〔。同年夏の選手権では3回戦で中京高に惜敗〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。他のチームメートに控え投手兼遊撃手の上野敬三がいた。 高校時代に交通事故に遭い、左脚太ももを負傷。回復後も後遺症のために、大きなストライドではなく小股でしか走れなくなった。その姿はペンギンが走っているようにも見えたようで、プロ入り後に付けられた“ペン造”のあだ名の由来になっている〔セカンドキャリアの「球人力」Vol.30 石井雅博『週刊ベースボール』2010年10月20日、2010年11月1日号より〕。 卒業後は明治大学に進学、外野手に転向する。東京六大学リーグでは在学中3度優勝。の秋季リーグから3季連続でベストナイン(外野手)に選出される。大学の1年上に平田勝男、同期に菊池総がいた。 のドラフト3位で読売ジャイアンツに指名されるも、右ヒジの故障を抱えたままの入団〔だったように、期待されるも怪我に悩まされ続けた。3年目のからようやく1軍に昇格、左投手用の代打を中心に徐々に起用されだした。ところが7月7日にスタメン左翼で起用された円山球場での試合(対中日戦)において、死球により右手の甲を複雑骨折。復帰後であっても右手の握力までは回復せず、出場機会を減らし続けた〔。 オフ、鶴見信彦との交換トレードで阪神タイガースに移籍。ちなみに巨人-阪神間の交換トレードは、これ以降長らく行われていない。新天地での春季キャンプではオーバーワークが祟って肉離れを負い、夏には戦力外を通告されてオフに引退。1992年からは、サラリーマンとして第2の人生を歩んでいる〔。 からまでマスターズリーグ・東京ドリームスに所属し、からは札幌アンビシャスに所属している。 和歌山箕島球友会の顧問に名を連ねる。 巨人時代の応援歌は、レジー・スミスの応援歌からの流用。その歌詞は「上から読んでも石井〜、下から読んでも石井〜、どこから読んでも石井〜、ホームラン、ホームラン石井」というユーモラスなもの(スミスも同じ歌詞で歌われた)で、ビートたけしに度々ネタとして採り上げられていた。 ドラクエの裏ワザの『くわたきよ はらしのづかな かはたはら いしい』(桑田、清原、篠塚、中畑、原、石井)の石井とはこの人のことである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井雅博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|