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石井 鶴山(いしい かくざん、延享元年(1744年) - 寛政2年(1790年))は、江戸時代後期の漢学者。肥前国佐賀藩多久邑の出身。佐賀藩第8代藩主鍋島治茂の侍講をつとめた。通称は有助。諱は有(たもつ)。漢詩に優れていた。 == 来歴 == 佐賀藩に仕える儒学者石井忠貫の次男として生まれる。母は佐賀藩多久邑の家臣木村政忠の娘。生家は、佐賀藩主鍋島家の外戚家門として繁栄した石井家の一族。先祖である石井兼清(石井尾張守家の初代)が、龍造寺長信の執権であった関係で、その子孫である佐賀藩多久邑主多久(水ヶ江龍造寺)家に仕えた、しかし、庶家であったため、生活は極めて質素であったという。 父忠貫も俊才で、学問で身を立て、儒学者として佐賀本藩に召し出されるほどの人であったため、鶴山も幼少時より学問を好み、とくに漢詩については、極めて高い才能を持っていた。 長じて、多久邑の学問所である東原庠舎に入舎。若くして舎監となる。荻生徂徠の弟子大潮にその学才を見込まれ、その推挙により京都に遊学する。京都では高葛波に師事。遊学からの帰国後、郷里の東原庠舎で教鞭をとっていたが、31歳のとき、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂に召し出され、侍講の職を拝命し、側近として仕えた。鶴山は鍋島家の外戚家門の出身とはいえ、もともとは多久家の家臣であり、陪臣の身であったため、当時、一気に藩主直参、しかも重臣に登用されるという異例の人事であった。 当時、治茂は、藩財政の慢性的な逼迫と、政治の停滞に問題意識を強くしており、藩政の抜本的な改革を企図していた。治茂はそのためのブレーンを選び、その結果、鶴山の他、古賀精里、長尾東郭の3名を相談役に任じて、政権運営及び藩政改革を補佐させたものである。 治茂はまず、藩政改革を成功させた熊本藩に鶴山を派遣し、藩政改革の成功要因を分析するように命じた。鶴山は熊本から帰藩後、「藩政改革成功の秘訣は人材の育成にあり」と復命。これがきっかけとなって、治茂の命を受けて、鶴山は古賀、長尾とともに、藩内に総合教育機関の創設を検討し始める。そして、初等教育から高等教育まで包括する九州有数の藩校弘道館(現在の佐賀県立佐賀西高等学校)が開設した。古賀は初代教授(校長)に、鶴山は初代助教(教頭)に就任し、また、鶴山みずから一教員として教壇に立ち、藩士の指導にあたった。 治茂はその後も鶴山を政策顧問として重んじて、江戸参勤の際にも必ず随行させた。また、鶴山は治茂の情報将校としても活躍し、全国各地を旅し、各地で見聞したことを治茂につぶさに報告している。また、当時の著名な学者大田南畝や頼春水たちとも親しく交わり見識を深めている。 寛政2年(1790年)佐賀藩の大坂藩邸にて病没した。享年47歳。 大坂曽根崎の久昌寺に葬られたという。墓(髪塚)は佐賀市の天佑寺にある。 嫡子の石井文橘(忠辰)も漢学者として佐賀藩に仕えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石井鶴山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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