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石原 和幸(いしはら かずゆき、1958年 - )は、長崎市出身の景観アーティスト。株式会社石原和幸デザイン研究所代表取締役。 ガーデニングの本場・イギリスの「チェルシー・フラワー・ショー」で3年連続(2006年 - 2008年)ゴールドメダル受賞。 == 経歴 == 1958年、長崎市で生まれる。久留米工業大学〔HTBガーデニングワールドカップ2014 日誌8日目 〕では、交通機械工学科に所属。当時の夢は「モトクロスのレーサーになりたい」。卒業後、自動車販売会社「マツダオート長崎」に就職。整備士となる。 整備の仕事の傍ら、大学時代に知人から「花屋はもうかるぞ」と聞かされていたことが頭の片隅に残っており、生け花の本流「池坊」に入門。強く感動し、23歳の頃、「人生これで行くんだ」と決意。勤務先近くの路上販売の生花店に「給料なしで雇ってください」と飛びこむ。 25歳の時、独立。実家の牛小屋を改造して「花風」という名称で開店。ところが、間もない1982年7月、長崎大水害に見舞われ、全財産である軽トラックが流され、花畑も全滅する。 その後、生花販売の「花泉」に雇われる。商店街の店舗を1人で受け持ち、畳一畳のスペースながら、月300万円もの売り上げをあげるようになる。その秘訣は、お客さんのよろず相談、頼まれ事をひたすら引き受けたこと。いつも走って花を届けるため、「銅座の」とあだ名される。 29歳で再び独立したが、花市場に入る許可が得られなかった。直接生産者のところに足を運び、花を仕入れていたところ、知人から福岡県 久留米市の花市場を紹介される。長崎から片道3-4時間かけ、車で寝泊まりしながら仕入れに通う。 長崎一の繁華街・銅座で、自販機置き場など小さなスペースに次々と店を出し、2年間で30店をオープン。心に抱いたモットーは「花を売らずに、夢を売る」。時には、3000円の花束を長崎から福岡まで自ら届けるなど、採算を度外視した行動で顧客を感動させ、ファンを増やしていった。 35歳の頃から庭づくりを始める。37歳の時、父親の死をきっかけに「自分は何のために生きているのか」と考え始める。 41歳の時、石原の成功を聞きつけた大手商社から合弁会社設立のアプローチを受ける。計画では「全国800店、従業員数千人。5年後には株式を店頭公開する」というもの。東京進出し、港区白金に本社を置く。ところが売り上げは伸びず、8億円の負債を抱え、2年で会社をたたむ。 長崎で原点に戻り、庭づくりと花の販売で、借金を返済。45歳の時、世界一権威のある庭と花のコンテスト「チェルシー・フラワーショー」の存在を知る。現地でレベルの高さを目の当たりにして衝撃を受け、挑戦を決意する。 2004年、初挑戦ながら、銀メダルに当たるシルバーギルトを受賞。2005年、長崎市から特別表彰を受ける。2006年の再挑戦で、ゴールドメダル受賞。以後、07、08年にもゴールドメダルを受賞。 2011年の同ショーでは、作品の庭の前でエリザベス女王と談笑。その様子が英国BBCに報じられる〔BBC - Chelsea Flower Show 2011 - Photographs and pictures - BBC〕。 新潟県の妙高高原、長崎県の雲仙普賢岳で、花と緑で町をよみがえらせる「里山プロジェクト」に取り組む。 東日本ハウスと業務提携を結び、同社モデルハウスのデザインや同社ガーデニングセミナーなど行う〔 - 東日本ハウス。リンク切れ〕〔提案4 緑化|環境への取り組み|注文住宅の東日本ハウス - 東日本ハウス〕。 2012年3月9日、羽田空港国内線 第1旅客ターミナル内の150mにオープンした屋内庭園「花の楽園」を手がける〔第1ターミナル 出発エリア・屋上エリア リニューアル完了!|日本空港ビルデング株式会社 - 日本空港ビルデング株式会社〕。 2012年3月頃、「花と緑の力で幸せな人を増やしたい」という石原氏の思いに共鳴した人々が、勝手連的組織「石原和幸サポーターズ〔世界的なランドスケープ・アーティスト石原和幸さんのサポーターズサイトです。チェルシーチャレンジ情報やイベント情報など、楽しく元気のでる情報をお届けします。 - 石原和幸サポーターズサイト! - 石原和幸サポーターズ〕」を発足、支援の取り組みを行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石原和幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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