|
石山 一秀(いしやま かずひで、1950年12月13日 - )は、日本出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球指導者・監督。出身地は京都府京都市下京区〔参考:『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(ホームラン3月号増刊。2000年3月31日、日本スポーツ出版社発行)〕。日本野球機構(NPB)と韓国野球委員会(KBO)において活動。在日韓国人として生まれ(プロ入り後に日本国籍へ帰化)〔『ホームランを知り尽くす』P146〕、韓国名およびKBOでの登録名は「宋 一秀」〔(ソン・イルス〔、ハングル:)。 一部出版物では、「石山 一彦」(いしやま かずひこ)と誤記〔『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。1998年3月31日、日本スポーツ出版社発行)P137掲載のプロフィール〕。 == 来歴・人物 == === 選手時代 === に平安高校で強肩・強打の五番捕手としてチームを甲子園大会の春夏連続出場へ導く(春の大会はベスト4進出)〔。 に卒業後、NPBの近鉄バファローズ(より、大阪近鉄バファローズ)へ球団職員の肩書で入団〔『ホームランを知り尽くす』P147〕、ブルペン捕手として一軍に帯同した。この時選手として契約できなかったのは、当時日本国籍以外の人物は全て等しく外国人選手枠としての獲得しかできないというルールが存在していたためである〔(新浦壽夫の項も参照)。同年秋のドラフト会議で5位指名を受け、正式に選手契約を結んだ〔。 入団当時の近鉄には辻佳紀が、その後は梨田昌孝・有田修三がいたために、ブルペン捕手としての生活が長く、出場試合の大半は偵察メンバーとしてのものや、消化試合での出場であった。 オフに近鉄を退団。退団が決まっていた同年10月21日の対阪急戦(藤井寺球場)で、14-17の3点ビハインドで迎えた9回裏2死に代打出場し、森浩二からNPB最終打席でプロ初本塁打を放った〔14年生 石山一秀 現役最終打席でプロ初本塁打 - スポニチアネックス内「日めくりプロ野球」2010年10月21日〕(NPB最終打席での初本塁打は、ほかに通算打席が1打席だった塩瀬盛道とドン・シュルジーがいる)。優勝決定後の消化試合という事もあって、対戦相手である阪急のベンチからも拍手が沸いた。野手の入団14年目32歳での初本塁打はNPB記録となった〔“松坂世代”井生崇光 13年目のセ最遅の1号本塁打 - スポニチアネックス内「日めくりプロ野球」2012年7月15日〕。 翌から新浦壽夫(前年まで読売ジャイアンツ所属)と共に韓国へ渡り、KBOの三星ライオンズに入団。三星時代はコーチを兼任〔。守備力を生かして先発出場することがあった一方〔『ホームランを知り尽くす』P148〕、当時スター選手として活躍していた李萬洙の指導役にも徹した〔。新浦の登板の時には必ずバッテリーを組み、は新浦の最多勝に貢献した。に現役引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石山一秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|