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石山 建一(いしやま けんいち、1942年9月6日 - )は、日本の東京六大学野球・社会人野球で活躍した野球選手・監督である。静岡県静岡市駿河区生まれ。 == 来歴・人物 == 静岡市立高松中学校に柔道部がなかったことから野球部に入部したのが野球人生のきっかけとなった〔静中・静高関東同窓会・お知らせ 15.第30回関東同窓会総会・懇親会開催 (2004.7.9) 〕。 静岡県立静岡高等学校に入学し、甲子園でなかなか初戦の壁を破れなかった同校野球部に勝利をもたらすべく、毎朝登校前に久能山東照宮の1159段の石段を駆け上がる、腕立て伏せ200回や右手左手200回ずつの握力トレーニングを日課とするなどの鍛錬を重ねた〔〔思い春空に:センバツ日本文理 支える/4 元全日本監督・石山建一さん /新潟 〕。 その甲斐あって1960年に春夏連続で甲子園に出場し、主将、遊撃手、三番打者として活躍。春の選抜は1回戦で平安高に延長10回惜敗〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。夏の選手権ではエース石田勝広の好投もあって勝ち進み、決勝に進出する。しかし法政二高の柴田勲に完封を喫し準優勝にとどまった〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。 翌年、石田とともに早稲田大学(石山は商学部)に進学。野球部に入部し1年生の春からベンチ入り、主に二塁手として活躍する。東京六大学リーグでは、1964年春季リーグで、宮本洋二郎、江尻亮の両エースを擁し、7季ぶりの優勝に貢献した。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で駒大に敗れ準優勝。リーグ通算73試合出場、243打数60安打、打率.247、0本塁打、11打点。 卒業後は日本石油に入社。1966年の都市対抗では準決勝に進み、熊谷組と対戦するが、エース平松政次が打ち込まれ敗退〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。しかし同年の第1回社会人ベストナインを獲得(遊撃手部門)する。翌1967年の都市対抗では、平松を擁し決勝に進出。日本楽器を完封で降し5年ぶりの優勝を飾る〔。日本石油では主将・助監督を歴任した。 現役引退とともに日本石油を退職し、1974年1月、石井藤吉郎の後任として母校早大野球部の第11代監督に就任(石井は総監督に退いた〔1974年のみ〕)。この際に早大野球部長の樫山欽四郎が、早大の先輩である堤義明に野球部監督退任後に石山の面倒を見るよう依頼したが、堤はこれを快諾してただちに石山を国土計画の社員として採用、早大へは出向という形となった〔〔【根本陸夫伝】アマチュア球界に強力な人脈を築いた男 〕。就任早々東京六大学春季リーグ戦で優勝を果たし、さらに第23回全日本大学野球選手権大会で15年ぶり2回目の大学日本一を達成した。選手にグラウンドで歩くことを禁じ、吉沢俊幸・松本匡史・八木茂の“花の二年生トリオ”を大胆にコンバートするなど、スピード感ある野球を目指した結果の栄冠だった。同年、第3回日米大学野球選手権大会日本代表監督を務めた。 その後江川卓を擁する法政大学の後塵を拝する日々が続いたが1978年秋季リーグ戦で三冠王岡田彰布や金森栄治らの強力打線で9シーズンぶりに天皇杯を奪回した。これを置き土産に同年、監督を退いた。 1979年からは創部したばかりのプリンスホテル硬式野球部助監督に就任、1985年から1994年までは監督を務め、1989年の第60回都市対抗野球大会では橋本武広・石井浩郎らを擁して初優勝した。また、西武ライオンズの立ち上げの際には西武球場の設計アドバイザーを務めた〔。 こうした実績を評価されて1995年に読売ジャイアンツ編成本部長補佐兼二軍統括ディレクターに就任した。翌年から同補佐兼国際課長。現在は全国で講演活動や野球指導を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石山建一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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