翻訳と辞書 |
石崎光瑤[いしざき こうよう] 石崎 光瑤(いしざき こうよう、明治17年(1884年)4月11日 - 昭和22年(1947年)3月25日は、日本の大正時代から昭和の初めにかけて活躍した日本画家。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮やかで装飾的な花鳥画を得意とした。 == 略伝 == 富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)で、素封家・石崎和善の五男として生まれる。本名は石崎猪四一。石崎家は和泉屋の屋号で本業は麻布業だったが 、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商だった。幼少より画才があり、明治29年(1896年)12歳頃東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師・山本光一に師事する。光瑤の「光」は師から貰っており、この頃の光瑤は福光や金沢近郊を写生して廻ったという。同36年(1903年)19歳で京都の竹内栖鳳の門に入る。新古美術品展で受賞を重ねるなか、明治42年(1909年)吉田孫四郎、河合良成、野村義重ら4人と、ガイド宇治長次郎らの案内で、民間人としては初めて剱岳登頂に成功する(初登頂は柴崎芳太郎)。 大正元年(1912年)第6回文展に《薫園》が初入選、以後毎年入選。大正元年第6回文展にが初入選し、以後文展・帝展に出品を続ける。大正5年(1916年)から翌年にかけてインドを旅行。ヒマラヤ山脈登った後、アジャンター石窟群やエローラ石窟群などの古蹟を巡る。帰国後に第12回文展に出品した《熱国妍春》と、翌年第1回帝展煮だした《燦雨》が特選となり、無監査となる。大正11(1922年)11月から翌年にかけてにはヨーロッパに外遊している。 その後も帝展に出品を続け、大正14年(1925年)から昭和20年(1945年)まで京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教員を務めた。昭和8(1933)年高野山金剛峯寺から障壁画制作の依頼を受け再度インドへ行き雪のヒマラヤ山脈に登り、帰国後貴賓室に襖40枚に及ぶ大作を制作している。昭和17年(1942年)に師の竹内栖鳳が亡くなると、石崎画塾を開いて後進の育成に務めた。しかし、昭和21年(1946年)脳溢血で倒れ床に伏すようになり、翌年死去した。享年62。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石崎光瑤」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|