|
石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 - 1956年11月28日)は、日本の社会運動家・アナキスト・作家。筆名の「旭山」も使用する。 == 来歴 == 埼玉県児玉郡山王堂村(現在の埼玉県本庄市山王堂)に、戸長であった五十嵐九十郎・シゲの三男として生まれる。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家であった。徴兵を逃れるため、同村の石川半三郎の養子となった。 東京法学院(中央大学の前身校)に在学中、海老名弾正の本郷教会(現在の弓町本郷教会)に通ってキリスト教に接近し、卒業のころに受洗する。 1901年に東京法学院を卒業、弁護士試験と高等文官試験に失敗し、堺利彦と花井卓蔵の斡旋で『万朝報』の発行所である朝報社に入社する。堺と幸徳秋水が1903年11月に平民社を開業するとこれに合流し、非戦論と社会主義を主張して週刊『平民新聞』、『直言』に多くの論説を発表する。平民社の解散以後、木下尚江の誘いを受けキリスト教社会主義の立場を採る『新紀元』を創刊する。この時期、田中正造と行動を共にし、足尾銅山鉱毒事件に取り組む。幸徳が日刊『平民新聞』を創刊すると、『新紀元』を廃刊して合流した。また、日本社会党に分裂を阻止するため第2回大会で加入し、堺と並んで幹事に選出された。 大逆事件に大きな衝撃を受け、ベルギーや中国のアナキストの支援を受けてヨーロッパに渡る。 イギリス、フランス、ベルギーなどでルクリュ一家やエドワード・カーペンターなどと親交を結び、第一次世界大戦に遭遇。 第一次大戦後、日本に帰国。関東大震災直後には警察に拘束されるも、親交のあった侯爵徳川義親が保護に来て、辛くも難を逃れた。大杉栄死後の日本のアナキズムの中心人物の一人となる。1927年(昭和2年)、共学社を設立。1929年(昭和4年)、雑誌「ディナミック」を創刊。 石川は、多くのアナキストが満州事変前後に農本主義などに絡めとられていく中、満州事変を鋭く批判してアナキズムの孤塁を守った。 石川は、デモクラシーを「土民生活」と翻訳し、独自の土民生活・土民思想を主張、大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としたが、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において、農本主義とは異なるものだった。太平洋戦争中は、独自の歴史観から東洋史研究にも取り組んだ。 敗戦直後に「無政府主義宣言」を書き、日本アナキスト連盟を組織。昭和天皇への共鳴と支持を主張して、左派やアナキストからの非難を受けたが、石川がもともと通常の右や左の範疇に属さない、独自の論理と思想の人間であったことを考えれば、戦中の抵抗も敗戦時の天皇支持も、石川においては一貫した独自の感性や思想に基づいたものだったといえる。 養女に評論家の望月百合子がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川三四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|