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石川 九楊(いしかわ きゅうよう、男性、1945年(昭和20年)1月13日 - )は日本の書家・書道史家。京都精華大学客員教授・同大学表現研究機構文字文明研究所所長。 福井県今立郡今立町(現・越前市)生まれ。京都大学法学部卒業。 == 略歴 == 福井県生まれ。5歳で木村蒼岳塾に学ぶ。8歳で杉本長雲に入門。中学で垣内楊石に師事。1字をもらい、九楊と号する。福井県立藤島高等学校では、選択科目で書道を第一志望とした。 1963年弁護士をめざして京都大学法学部に入学したが、弁護士は諦める。書道部に入部し、新入生歓迎書道展では自作が展示された。自作詩、戦後詩を書く。4年生で、書道研究誌『由蘖』を創刊。1967年卒業、京都市東山区の化学会社に広報宣伝係として入社。美耶子と結婚。1978年普通の勤め人の2倍働く覚悟だけで退社。 1979年、戦後5年で書道塾は成立していた、なんとか食べてゆけるくらいの需要はあろうという見込みだけで、京都市中京区に開塾。1985年、美耶子は東京神田神保町に画廊を設立、生活のささえとなる。 1991年『書の終焉』でサントリー学芸賞受賞。2002年『日本書史』で毎日出版文化賞受賞 。2009年『近代書史』で大佛次郎賞受賞。 == 石川九楊の書論 == 明治期に西洋文化が日本に流入する中で書道もその影響を受けて西洋の造形芸術論的な立場から理解されるようになった。石川はこのような西洋的な視点からの書論を批判し、筆蝕や書の言語表現としての側面を重視した独自の書論を展開している〔石川九楊『書とはどういう芸術か 筆蝕の美学』中公新書、1994年、「序章」「第一章」「第三章」より〕。 石川によれば、世界最高の書は、蘇軾の『黄州寒食詩巻』であり、「書の中の書」であるという〔石川九楊編 『書の宇宙(14) 文人の書・北宋三大家』 p.5、p18、二玄社、1998年〕。 『芸術新潮』2001年5月号「新省庁「看板」文字探報記」で、2001年の省庁再編により発足した霞ヶ関省庁の看板文字を論評(酷評)した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川九楊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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