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石川優子 : ウィキペディア日本語版
石川優子[いしかわ ゆうこ]

石川 優子(いしかわ ゆうこ、1958年10月3日タワーレコード 〕 - )は、日本のシンガーソングライター。本名は田中優子で、石川は旧姓。身長155cm。
== 来歴 ==
大阪府守口市出身。大阪府立四條畷高等学校大手前女子短期大学卒業。
小学校4年生の時に守口市少年少女合唱団〔http://www.mkc.zaq.ne.jp/mori_kyouiku/seisyonen_center.htm 〕に10倍以上の競争率を乗り越え合格。中学3年でギターをはじめ、高校時代は女性デュオの「スリーピー」、高校3年から短大にかけてはバンドの「ファンタスティック」などに参加して活躍した。1978年ヤマハ第16回ポピュラーソングコンテスト〔第16回 ポピュラーソングコンテスト - ヤマハ音楽振興会〕(通称ポプコンつま恋本選会に、CHAGE and ASKA円広志大友裕子クリスタルキングらとともに出場、「夜の雨」を歌った。
1979年、国際チリ音楽祭に「悲しさ夢色」で出場したあと、3月「沈丁花」でプロデビュー。つづく二枚目シングルでは、石川優子本人が作詞作曲した「レット・ミー・フライ」をリリースした。同年10月発売の三枚目のシングル「クリスタル モーニング」が、本人出演の「コルゲントローチ」CM曲となり、スマッシュヒットした。1981年には、シングル「シンデレラ サマー」が同年のJAL沖縄キャンペーンソング〔ジャルパック企業情報 - ジャルパック〕となって大ヒット。
ラジオ番組DJとしても人気を集め〔ラジオマガジン全国DJ人気投票では、第1回('80~'81)2位、第2回('81~'82)1位、第3回('82~'83)1位、第4回('83~'84)2位、第5回('84~'85)5位と常に上位をキープした〕、MBSヤングタウンをはじめとして、数々の番組を担当した。また、ポプコン出身の純粋なシンガーでありながらも、グラビア雑誌でグラマラスな体型を披露する等、アーティストにとどまらない活躍ぶりを見せた。
「シンデレラ サマー」のヒットの際には、ザ・ベストテン7週連続登場。ザ・ベストテンの放送日がMBSヤングタウンの担当曜日である木曜日であったので、MBS千里丘スタジオや隣のミリカプールなどで毎回中継が行われていた〔ちなみにMBSヤングタウンでは笑福亭鶴光並びに角淳一(当時MBSアナウンサー)とパートナーを組んでいたが、二人はディレクターらスタッフとともに番組で「石川優子スター計画」なるものをぶちあげ、サイン会を企画し、リクエストをあおった。そしてザ・ベストテンの中継の際には、必ずバックに登場し、テレビカメラに写っていた。このうち角淳一は大阪府立四條畷高等学校の先輩。また、笑福亭鶴光は番組のアシスタントになったばかりの石川優子を「象の足」と呼び、ニックネームとして定着した。またこの番組では、リスナーからのハガキなどにより、他にも「振り向けば猪木」、「しゃくれペリカン」など、数々のニックネームがつけられた〕。
その後、自ら歌う楽曲の作詞作曲だけでなく、1983年河合奈保子1984年には早見優、さらには冨永みーなデューク・エイセス等にも作品を提供するなど、ソングライターとしての活動も活発に行う。
1984年には、CHAGEとのデュエットが実現。CHAGEが作曲した「ふたりの愛ランド」がJAL沖縄キャンペーンソングに決まったことで、「石川優子とチャゲ」というアーティスト名でその夏最大のヒット(ザ・ベストテンには11週連続登場。最高2位)を飛ばす。
1987年、所属していたラジオシティレコード文化放送出資)が文化放送と渡辺プロダクションとの合弁会社であったアポロン音楽工業に吸収統合され、東芝EMIに移籍する〔ラジオシティレコード時代のアルバム計13枚は、2008年ビクターエンタテインメントより ボーナス・トラック付き紙ジャケット仕様CD(石川 優子 - ビクターエンタテインメント)で復刻・再発売されている。〕。
デビュー直後を除き、前期はアベニュー、中期はビレッジボイス、後期は恋愛孤独人などをバックバンドとして活躍してきたが、1990年7月浜松東京京都大阪でのファイナルコンサート「愛を眠らせないで」の公演を最後に、歌手を引退した。ニューヨークに留学した後、1994年に元マネージャーと結婚したが、同年、香西かおり益子直美荻野目洋子らに楽曲を提供している。1996年に男児を出産、一児の母となった。その後も、断続的ではあるが、DJや映画評論などの仕事は続けてきた。
2009年3月発売のChageのアルバム「Many Happy Returns」に「ふたりの愛ランド2009」を収録。25年ぶりにデュエットでこの曲のレコーディングを行った。
2016年春、ポプコン出身者が集まるライブ「僕らのポプコンエイジ」で、1990年以来26年ぶりに復帰。
本人曰く、趣味はプロレス観戦で好きな選手は寺西勇スタン・ハンセンとのこと。また大相撲では、青葉山のファンを公言し、雑誌で対談をおこなった。プロ野球埼玉西武ライオンズ(発表当時西武ライオンズ)の応援歌吠えろライオンズ」の作詞作曲を手掛け、1996年以降のシーズンでは現在でも必ず7回の攻撃時に球場に流れている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「石川優子」の詳細全文を読む



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