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石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延元年1月8日) - 1935年(昭和10年)1月17日)は、日本の動物学者。進化論を紹介した。 1909年、滋賀県水産試験場の池で、琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。 == 人物 == 旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた(戸籍上の誕生日は1861年(文久元年)4月6日)。1868年(明治元年)、徳川幕府の瓦解により駿府へ移った。 1872年(明治5年)東京へ戻り、進文学社で英語を修め、1876年、東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた。1877年10月、エドワード・S・モース東京大学教授が、蝶の標本を見に来宅した。1878年、東京大学理学部へ進んだ。モースが帰米したあとの教授は、チャールズ・オーティス・ホイットマン、次いで箕作佳吉であった。1882年、動物学科を卒業し、翌1883年、同教室の助教授となった。その年、モースの講義(1879年)を筆記した『動物進化論』を出版し、進化論を初めて体系的に紹介した。 在官のまま、1885年(明治18年)、新ダーウィン説のフライブルク大学アウグスト・ヴァイスマンのもとに留学し、無脊椎動物の生殖・発生などを研究した。1889年帰国し、1890年帝国大学農科大学(のちの東京帝国大学農学部)教授となった。1893年から翌年まで、東京動物学会(日本動物学会の前身)の会長を務めた。 1901年(明治34年)、理学博士になった。研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も50篇におよんだ。 さかのぼって、ドイツ留学から帰国した1889年(明治22年)秋、帝国博物館学芸委員を兼務し、1900年からは天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフ(ファンジとグレー)を輸入したあと、1907年春に辞した。 1909年、滋賀県水産試験場の池で、琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた。 1911年(明治44年)4月27日、帝国学士院会員になった〔『官報』第8352号、明治44年4月28日。〕。 1924年(大正13年)、東京帝国大学を退き、名誉教授となった。 1932年(昭和7年)から、明治大学文学部文藝科で自然科学を教えた。 1935年(昭和10年)、肺壊疽のため、台北病院で客死した。75歳。墓は谷中霊園にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川千代松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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