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石川 大浪(いしかわ たいろう、宝暦12年(1762年)〔『赤沼掃墓叢書』(森銑三 「洋画家石川大浪」『森銑三著作集』第三巻 中央公論社、1971年)より。『諸家系譜』や『寛政重修諸家譜』では明和2年11月8日(1765年12月20日)と記され定説とされたが、これらの史料は虚偽の申告がなされる場合があることや、宝暦13年生まれの弟孟高より後になってしまう点から、宝暦12年(1762年)のほうが正しいと考えられる(勝盛、93頁)。〕 - 文化14年12月23日(1818年1月29日))は、江戸時代後期の洋風画家。弟の石川孟高も洋風画家。 == 伝記 == 名を乗加(のりまさ)、通称は甲吉、のち七左衛門。字は啓行、大浪は号で、別号に董松軒、董窓軒。大浪の号は、喜望峰のそびえるテーブルマウンテンの中国名「大浪山」に由来し、作品の多くにそのオランダ名「Tafel berg」とサインする。 400表取りの旗本出身。明和8年(1771年)9歳で父の跡を継ぎ、高力式部支配に入る。天明4年(1784年)将軍徳川家治に御目見え、同6年(1786年)本所が出水した際、自宅が床上浸水したため40両を拝借している。天明8年(1786年)27歳で大番(白須甲斐守組、11番所属)となり、亡くなるまで同職を勤めた。 絵は狩野派から始めたが、山村才助との深い交流を通じて積極的に西洋の情報を吸収し、大量で良質な西洋銅版画を模写することで技術的に習熟していった。大浪は蘭書の挿絵を参照しただけでなく、それが内包する海外情報や図像の意味を理解した上で模写しており、単なる挿絵画家ではなく深い教養と好奇心の持ち主だった。『大画法書』など当時希少だった蘭書も多く所持し、大槻玄沢や木村蒹葭堂と対等の人間関係を結んでいる。晩年、山村才助の死後は、古物・古書画の鑑賞・鑑定に傾倒し、同じ趣味をもつ松平定信、大田南畝らと交わった。一方で杉田玄白と親密だったらしく、その肖像画を描き大浪晩年の代表作と言える。 油絵の遺作はなく、水墨画か淡彩画による洋風画や、龍虎図や羅漢図のような東洋の伝統的な画題など、画域は幅広い。また、大槻玄沢著『蘭畹摘要』や杉田立卿(杉田玄白の子)著『眼科新書』などの挿絵も担当している。大浪は司馬江漢のように油彩画や銅版画を残していないにもかかわらず、谷文晁は大浪を「泰西画法」の師と仰いでいるが、それは当時活躍したどの絵師よりも大浪が西洋の画法を正しく実践できる技術を持っている、と文晁が認めていたからだろう。 大浪の蔵書、ニューホフ著『東西海陸紀行』やフランス語版『イソップ物語』は、後に一部が歌川国芳の手に渡り、国芳はその洋風表現を自身の作品に取り入れている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川大浪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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