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石川康通 : ウィキペディア日本語版
石川康通[いしかわ やすみち]

石川 康通(いしかわ やすみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名美濃大垣藩初代藩主。伊勢亀山藩石川家初代。石川家成の長男。石川数正は従兄に当たる。
==概要==
天正元年(1573年)、武田勝頼率いる武田軍と戦って武名を挙げた。天正8年(1580年)、父が隠居したため、家督を継ぐ。父の家成は家康の従兄弟にあたり、西三河の旗頭となった、徳川家でも一、二を争う重臣であった。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封された時、それまでの戦功を賞されて上総成戸に2万石の所領を与えられた。当時の康通は徳川家中の有力大名として、井伊直政本多忠勝榊原康政平岩親吉と共に在京中の家康守護を交代で務めていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、竹谷松平家清と協力して尾張国清洲城の守備、石田三成近江国佐和山城攻めに参加し、戦後に戦功を賞されて美濃大垣藩5万石に加増移封された。
慶長12年(1607年)、父に先立って病死した。享年54。
子の忠義は幼少のため、家督は父が再び継いだが2年後の慶長14年(1609年)に死去、その後は甥の忠総が継承した。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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