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石川 村弘(いしかわ むらひろ)は、江戸時代の伊達氏家臣。仙台藩の家格は一門筆頭。角田石川氏第6代当主。 == 生涯 == 貞享2年(1685年)、角田石川氏第4代当主・石川宗弘の長男として生まれる。幼名は松之助。 貞享3年(1686年)閏3月、岩出山伊達氏第2代当主・伊達敏親の養子となる。元禄3年(1690年)実家の石川家に戻り、実父宗弘の婿養子となっていた宗恒の養嗣子となる。元禄9年(1696年)4月養父宗恒の死去により家督を相続し、角田邑主となる。元禄11年(1698年)藩主伊達綱村の加冠で元服、綱村の偏諱を受け、通称を大和、諱を村弘と名乗る。 元禄12年(1699年)12月、伊達綱村が石巻に出駕された際には、村弘は命により駕に随従し、元禄16年(1703年)5月17日、東照宮祭礼には藩主の代理を命ぜられ、式を執り行った。 宝永元年(1704年)12月、婚礼の準備が相調い、伊達綱宗の養女安子姫(実は涌谷伊達氏第4代伊達村元の娘)が、江戸の伊達屋敷より仙台城に到着。安子姫は12月15日に石川家屋敷に入輿し、21日に村弘と安子姫の婚礼の式が行われた(村弘20歳、安子姫17歳)。附人の守屋忠左衛門、遠藤玄衛は石川家中となった。 しかし、宝永3年(1706年)9月8日、子が授からぬまま、安子姫は亡くなる。享年19であった。 宝永6年(1709年)6月23日、徳川家宣の将軍宣下に付き、伊達家臣惣代として石川村弘は江戸に至り、賀を述べる。 正徳元年(1711年)11月24日、幕府より仙台藩に日光東照宮修造の命が下り、奉行大町頼直とともに日光普請惣奉行を命じられる。12月6日、通称を宮内と改め、翌日、普請奉行見回りのため、江戸に赴いた。 しかし、翌年の正徳2年(1712年)2月、江戸にて病を患い、2月17日、江戸芝口の仙台藩邸で死去した。享年28であった。 芝東禅寺で火葬され、解脱院殿明峰自証大居士と法諡する。3月に遺骨が角田に戻り長泉寺にて葬送され、大虚院殿廓山幻然大居士と改めた。 家督は嫡男村満が相続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石川村弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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