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石川総昌 : ウィキペディア日本語版
石川総昌[いしかわ ふさまさ]

石川 総昌(いしかわ ふさまさ)は、江戸時代前期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)2代。
== 生涯 ==
万治2年(1659年)総氏の嫡男として誕生。母は河内丹南藩第3代藩主高木主水正正弘の娘である。寛文10年7月12日(1670年8月27日)将軍徳川家綱に拝謁し、父の致仕を受け元禄8年7月9日(1695年8月18日)家督を継ぐ。
元禄11年10月1日(1698年11月3日)御書院番組頭を拝命し同年12月(1699年1月)布衣着用を許される。また、上野国下野国に持つ所領が三河国額田郡加茂郡に移され、所領4千石全てが三河の2郡内となる。
元禄16年2月(1703年3月)組下大久保忠賀の切腹〔「元禄世間咄風聞集」 「7-9 大久保忠賀下女を凍死させ切腹」の項(岩波書店 1994年)〕に伴い、小普請組に降格とされ閉門を仰せつかる。同年12月(1704年1月)赦免されるが翌宝永元年2月(1704年3月)漸く出仕を許される。享保4年6月(1719年7月)小普請組支配を命じられる。
享保6年7月(1721年8月)職を辞し旗本寄合席に列し、享保8年7月(1723年8月)病により致仕し、家督を嫡男である総朗に譲る。享保9年1月23日(1724年2月17日)築地萬年橋の屋敷にて死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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