|
石 星川(せき せいせん)は中華民国の軍人・政治家。湖北軍の軍人。後に中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。字は漢舫。 == 事跡 == 日本に留学して、陸軍士官学校第4期歩兵科を卒業した。帰国後は、新軍第2鎮第79標標統、第80標標統を歴任している。 辛亥革命が勃発すると、石星川は帰郷して湖北軍政府に参加した。中華民国成立後は、湖北軍第1師師長に任ぜられた。1915年(民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、石星川は二等男爵の位を授けられている。 1917年(民国6年)11月、石星川は護法運動に呼応し、黎天才率いる湖北靖国軍で副総司令兼第1軍軍長となった。しかし翌年1月、湖北督軍王占元に敗北して、四川省との境に逃れ、しばらくここに割拠する。1921年(民国10年)、四川軍の攻撃に敗れ、地盤を追われた。1923年(民国12年)2月、北京政府から平威将軍の地位を授与されている。 1938年(民国27年)10月、武漢が日本により陥落する。日本の支持を受けた石星川は、中華民国維新政府において武漢市参議府副議長に任ぜられた。年末には議長に昇進した。 汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府が成立した後の1940年(民国29年)5月、石星川は何佩瑢が結成した共和党に加入し、副総裁に任命されている。しかし同年12月、共和党は解散された。翌年、石は中国国民党中央執行委員、全国経済委員会委員、豫鄂贛三省財政整理委員会主任委員に任ぜられた。1943年(民国32年)10月、漢口特別市市長に任ぜられている。 日本敗北後、蒋介石の国民政府により漢奸として逮捕された。1948年(民国37年)に無期懲役の判決を受け、同年7月22日に獄死した。享年69。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石星川」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|