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石本 貴昭(いしもと よしあき、1962年12月24日 - )は、兵庫県神戸市須磨区〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、46ページ〕出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 滝川高校のエースとして、1980年に春夏連続で甲子園に出場〔。春の選抜は、1回戦で鳴門高のエース島田茂と投げ合い1-0で完封勝利。しかし2回戦では丸亀商に延長12回敗退。夏の選手権は、県予選決勝で報徳学園の矢野和哉、金村義明両投手に投げ勝ち出場を決める。熊谷商、敦賀高を破り3回戦に進出するが、原伸次がいた広陵高に逆転負け〔。 その年近鉄からドラフト1位指名を受ける〔。プロ1年目の1981年、西本監督は石本の才能にほれ込み、高卒1年目ながらもオープン戦などで積極的に投げさせた。シーズンでは11試合に登板するもこれといった結果を出すことはできなかった。 その後しばらくは二軍生活が主だったが、5年目の1985年、才能が開花する。この年直球とスライダーが面白いように決まり、リリーフでフル回転。70試合登板で、19勝3敗7セーブ、防御率3.56勝率.864という成績を記録〔。更にリリーフだけでこの年の規定投球回数をクリア。阪急佐藤義則に2勝差で敗れ最多勝は逃したものの、救援のみで19勝をあげ最高勝率のタイトルを獲得し近鉄のAクラス(3位)復帰に大きく貢献した〔。1986年は64試合に登板、8勝32セーブでセーブ王になり、チーム2位躍進の原動力となった〔。 この年、ホームクロスプレーで相手チームのランナーに「お前はアウトだ」と告げてベンチに戻っていくシーンが、珍プレーとして採りあげられた。 1987年は50試合に登板したが、2年間の酷使による登板過多で球威が目に見えて落ちていた。3勝7セーブにとどまるなど、首脳陣の期待に応えきれずチームは最下位に沈んだ。近鉄が9年ぶりのリーグ優勝を決めた1989年には、僅か14試合の登板にとどまり、日本シリーズに於いても1試合のみ登板となる。この頃、抑えには吉井理人が台頭しており、石本は先発にも活路を見出そうとしたがうまくゆかず、活躍の場は狭まっていた。 1991年6月中日ドラゴンズに金銭トレードにて移籍。球威は戻らず、1992年のシーズン限りで現役を引退した〔。その後古巣の近鉄に戻り打撃投手、スコアラーなどをしていたが近鉄球団の解散に伴いオリックスへ移り、フロントで育成担当として勤めていた。オリックスが開催する出張形式の野球教室「バルボン校長先生の野球教室」にコーチとして参加することもあった。2011年12月31日付でオリックスを退団した〔【オリックス】年末年始の“大”人事異動 〕。 現在は、NPO法人ホークスジュニアアカデミーのジュニアコーチとして、主に鹿児島市のセイカスポーツクラブにて少年野球の指導に従事している〔ホークスキッズベースボールスクール 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石本貴昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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