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石田一松[いしだ いちまつ]
石田 一松(いしだ いちまつ、本名同じ、1902年11月18日 - 1956年1月11日)は、広島県安芸郡出身の演歌師、演歌歌手。作詞家、作曲家〔中国新聞 2011年9月24日 4ページ「残影 太平洋戦争開戦70年」〕。お笑いタレントで、吉本興業(東京吉本)所属。戦前の一時期、''石田一涙''と藝名を名乗る。戦後は並行して政治家、衆議院議員を務め、タレント議員・第一号とされる。法政大学卒業。身長五尺四寸、体重十七貫。(自著記載より) なおなぎら健壱は彼の孫弟子にあたる〔INAX サウンド オブ マイスター :くにまる東京歴史探訪 〕〔神奈川近代文学館 | BC的 秘?日常記 2013.01.25 〕。 == 来歴・人物 ==
===生い立ち=== 広島県安芸郡府中村字山田(現在の安芸郡府中町)生まれ。3歳で実母とは生き別れて、その後4人の継母に育てられた。うち3人の継母から虐められこれを耐え抜いたという。父は井戸堀職人で、その後米相場で失敗。一松は苦学して広島市の私立明道中学に学ぶ。明道中学は当時、広島市中心部田中町に在り、修道中学、広陵中学と並ぶ広島市の私立三中と言われたが、硬骨蛮風の校風が遠因で1923年廃校になったと言われている。他の出身者には黒島亀人、西村伊作ら〔この他、駿台予備学校の創立者・山崎寿春が教頭として在籍(1.創立者・山崎寿春 - ようこそ駿台ホームページへ )。〕。同校角力部(相撲部)に所属、「明道のイシ」と呼ばれ22、3人の沖仲士(人夫)と大喧嘩し同校を退校。悪い評判が広がり広島に居られなくなり、「にいちゃん、どこにゆくんの、よそ行つちゃいけんよ、行つちゃいけん、行つちゃいけんいけん」と末妹に泣きつかれ、後を追って来るのを振り切って上京した。三等車の隅っこに乗り「俺をボンクラ扱ひにして、廣島の奴等、今に見て居れ、絶対に見返してやるけん」と心に誓った。この後、残った石田一家も府中に居られず、広島市内の橋本町(現在の中区)に転居。1945年の原爆投下で、爆心地から僅か1キロのこの家で、末妹を含めて兄弟姉妹の3人は皆死んだ。府中に居たままならば原爆には遭わなかっただろうといわれる。この死別が政治家を志すきっかけとなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石田一松」の詳細全文を読む
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