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石田堤[いしだつつみ]
石田堤(いしだつつみ)は、豊臣秀吉による関東平定の一環として小田原方の成田氏長居城である武蔵国・忍城を石田三成らが攻めたとき(忍城の戦い)に、水攻めのために忍城の周囲を総延長28km(現・埼玉県行田市・鴻巣市内)に渡って築いた堤。 == 概要 == 天正18年(1590年)の関東平定において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現・丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し〔「三成の忍城攻め 」『歴史と旅 - 石田三成の真実』1999年4月号、秋田書店 中井俊一郎の考察によれば、忍城水攻めは豊臣秀吉の策であるという。〕、忍城周囲に総延長28kmにも及ぶ堤を築いた。 総延長28kmに及ぶ堤をわずか1週間で作り上げたと言われるが、実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われる。堤が完成した後、利根川・荒川の水を引き入れたが、城にはあまり水が溜まらなかった。 その後、増水したため、堤が決壊して石田方に多数の溺死者が出て〔忍城水攻めと堤防決壊を記録した『関八州古戦録』では「人馬溺死に及ぶもの若干」と記されている。〕、水攻めは失敗に終わった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石田堤」の詳細全文を読む
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