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石虎 : ウィキペディア日本語版
石虎[せき こ]

石 虎(せき こ)は、五胡十六国時代後趙の第3代皇帝。明帝石勒の従子(甥もしくは1世代下の親族)に当たるが、早くに両親を失い、石勒の両親に養育されたため弟ともされた。代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父である李虎諱を避けるため、字で石季龍と表記されている。
== 生涯 ==
嘉平2年(312年)から石勒の手足となり、前線で戦った。段部と講和の際に盟約に派遣された。嘉平3年(313年)、桃豹に代わり魏郡太守となって、を任された。趙王元年(319年)、石勒が趙王を称すると単于元輔・都督禁衛諸軍事となり、趙王3年(321年)に幽州の段部を打ち破った。その後車騎将軍になり、離石鮮卑を討った。趙王5年(323年)、青州曹嶷を滅ぼした。趙王7年(325年)には洛陽から前趙の勢力を駆逐した。
趙王8年(326年)、石勒の太子石弘が鄴を任されると禁兵と車騎将軍の全てが石弘の配下に移され、王陽が非漢族の統率者にされた。太和元年(328年)8月、前趙の劉曜と戦い大敗したが、12月に石勒と共に洛陽を攻撃、翌太和2年(329年)9月に劉曜の太子劉煕を殺害して前趙を滅ぼし、伝国璽を石勒に送った。建平元年(330年)、太尉・守尚書令・中山王とされ文官の首位に立ち、長男の石邃冀州刺史・斉公となった。建平4年(332年)に石弘が政務を見るようになると権力を失ったが、明帝が病床に就くと石勒の代理のようになった。明帝は石虎に「周公霍光がどうだったか、よく考えろ」と遺言した。
建平4年(333年)に明帝が崩御すると太子の石弘に帝位は継承されたが、石虎は魏王・丞相となって権力を掌握し、石邃が魏太子となった。翌延熙元年(334年)に石弘を廃し、自ら居摂趙天王となり、翌年には襄国から鄴に遷都した。建武3年(337年)に大趙天王となり、石邃が天王皇太子となった。しかし、石邃は石虎の理不尽な対応から「父を殺したい」と口走り政務を見なくなり、石虎は石邃の側近を殺して石邃を幽閉した。石邃は謝罪せず妻の張氏と共に殺され、代わりに次男の石宣が天王皇太子となった。建武4年(338年)、幽州に前燕を攻めて逆に大敗したが、翌建武5年(339年)に荊州揚州東晋に勝利した。建武7年(341年)、石宣の弟の石韜を太尉とし、石宣と共に政務を見させた。
武帝の治世は武帝自身の暴虐非道な性格を反映して、乱世である五胡十六国時代の中でも最も非道が罷り通る時代と評されている。中でも次々に大宮殿を造営したり、統治下の漢民族から馬、美女、物資などありとあらゆるものを徴発し続けた結果、漢人の10人に7人が破産し、妻を取られて自殺する者も後を絶たなかったという。しかし凶暴な性格ではあるが、仏教に対しては寛容であり、仏図澄を国師待遇していた。
建武14年(348年)、武帝が特に寵愛していた石韜が、地位を奪われることを恐れた石宣によって殺害された。石宣が武帝も殺そうとしていた事が判明すると、武帝は怒り狂って石宣を惨殺し、他の宗族や臣下まで多数虐殺した。この事件後に発病、新たに太子を立てる事になり、燕王石斌(養子、明帝の子)、彭城公石遵(九男、石邃の同母弟)、斉公石世(劉曜の娘安定公主の子)のうちから石世が選ばれ、安定公主が皇后に立てられた。翌太寧元年(349年)に天王位の称号を廃して皇帝の位についたが、病状が悪化すると、石遵を大将軍、石斌を丞相にして石世を補佐させようとした。劉皇后は石斌が石世の害になると考え、武帝が危篤になると石斌を殺した。
武帝の没後、石世が跡を継いだ。しかし、石世は兄の石遵に殺され、続いて石遵も弟の石鑑に殺害され、石鑑も短期間で武帝の養孫だった石閔に殺害された。一連の内乱で石閔が台頭、武帝の死から僅か2年で後趙を滅ぼし冉魏を打ち立てることになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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