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石 青陽(せき せいよう)は、清末民初の革命家・軍人・政治家。中国同盟会以来の革命派人士である。後に中国国民党に加入し、西山会議派の一員にもなった。名は薀光だが、字の青陽で知られる。 == 事跡 == 清末に秀才となる。重慶府中学堂を経て日本に留学する。当初は養蚕専門学校で学んだ。1906年(光緒32年)、東京で中国同盟会に加入した。翌年、学校を卒業して帰国する。帰国後は養蚕伝習所を開設する傍ら、ひそかに同盟会重慶支部に参加し、理事となる。 1911年(宣統3年)夏、四川鉄道保護運動(「保路運動」)が発生すると、決死隊(「敢死隊」)を組織し、重慶での革命派蜂起に加わる。重慶で革命派の蜀軍政府が成立すると、決死隊を義勇軍に改組した。 1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)が失敗すると日本へ逃亡する。日本では中華革命党に加入した。1915年(民国4年)末に護国戦争が勃発すると、これに参加している。この前後から四川省での軍事活動を開始し、1917年(民国6年)12月、川北招討使となる。翌年3月、四川陸軍第2師師長兼川北鎮守使となった。後に川滇靖国聯軍援陝第1路軍総司令となる。その後、四川を離れて孫文(孫中山)の護法運動に加わった。1921年(民国10年)12月、大本営参議に任ぜられた。 1922年(民国11年)、孫文派の司令官として四川に戻り、四川討賊軍第1路軍総司令兼川東辺防軍総司令となる。しかし、1924年(民国13年)には四川省内の内戦に敗北して広東省に逃亡した。同年1月、中国国民党第1期中央執行委員に選出されている。政治的立場は反共右派であった。1926年(民国15年)1月の国民党第3回全国大会で除名されたが、同年3月に西山会議派に加わり、同派の下で中央監察委員に選ばれている。 1929年(民国18年)に国民党各派合流に伴い党籍を回復した。同年、滇康墾殖特派員に任ぜられた。1931年(民国20年)12月、国民党第4期中央執行委員に選出される。同月、蒙蔵委員会委員長に任ぜられた。 1935年(民国24年)3月25日、南京で死去。享年57。死後、陸軍上将を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石青陽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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