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石黒 五十二(いしぐろ いそじ、安政2年6月10日(1855年7月23日) - 1922年(大正11年)1月14日)は、明治時代の官僚、土木技術者、政治家。 == 生涯 == 加賀藩士・石黒千尋の二男として加賀国金沢に生まれる。明治維新前は、藩校で修めた西洋砲術を教授していたという 〔『日本博士全伝』314頁 、『立身致富信用公録 第9編』23頁 〕。 維新後は、加賀藩主の命を受けて大学南校(開成学校を経て、後に東京大学)に進み、明治11年(1878年)、土木工学科を卒業。同年、神奈川県土木課に出仕したが、翌明治12年(1879年)、文部省の選抜によりイギリスに留学した〔『日本博士全伝』315頁、『立身致富信用公録 第9編』23頁〕。留学中は、アレキサンドリア港の水道工事をはじめ多数の工事に携わったほか、ジョン・フレミングとともにインシュライトの発明を行うなどもした〔『日本博士全伝』316-317頁、『立身致富信用公録 第9編』24頁〕。 明治16年(1883年)、日本への帰国後は内務省に出仕し、各地の水道、土木の改良工事に当たった。明治19年(1886年)、呉、佐世保両鎮守府の設置が決まると、海軍省技師に兼任され、その創設工事に当たった〔『日本博士全伝』318-319頁、『立身致富信用公録 第9編』24頁〕。 また、三池港や門司若松港の築港工事も手掛けた〔『日本博士全伝』319頁、『立身致富信用公録 第9編』25頁〕。内務省での部下に高橋辰次郎がいる〔『台湾の官民 評論』51頁 〕。 土木監督署技監、海軍技監を歴任し、明治40年(1907年)12月10日〔『官報』第7337号、明治40年12月11日。〕から死去するまで貴族院勅選議員を務め、同成会に属して活動した〔『大正憲政史』 332頁〕〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』95頁〕。1908年7月1日、錦鶏間祗候となる〔『官報』第7504号、明治41年7月2日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石黒五十二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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