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硫黄島の星条旗(いおうじまのせいじょうき、''Raising the Flag on Iwojima'')は、第二次世界大戦中の1945年2月23日にジョー・ローゼンタールによって硫黄島(いおうとう〔「硫黄島」の呼称は、戦前から「いおうとう」「いおうじま」の2種類が混在しており、日本軍は主に「いおうとう」を使用していた。2007年6月18日以降は「いおうとう」が国土地理院の正式な地形図での表記となった。アメリカ軍による「Iwo Jima」の呼称は旧海軍作製の海図のローマ字表記に基づくと考えられる。アメリカは今後も「Iwo Jima」の表記を歴史的理由で維持するという。出典:小笠原諸島地名事典 Place Names 〕)で撮影された世界的に有名な報道写真である。 5人のアメリカ海兵隊員と1人の海軍兵が硫黄島の戦いの最中、摺鉢山(すりばちやま)の頂上に星条旗を立てる姿を撮影したもので、史上もっとも有名な報道写真の一つである。映画『父親たちの星条旗』が公開された2006年にいたるまで太平洋戦争(大東亜戦争)のイメージとしてよく知られたものとなり、1945年度のピューリッツァー賞の写真部門を受賞した唯一の写真となった。写真に写っている6人のうち、3人は硫黄島で戦死したが、他の3人は生き残って一躍有名人となった。後にこの写真をもとにアーリントン国立墓地近くに海兵隊戦争記念碑が造られた。 == 硫黄島の戦い == 1945年2月19日、「飛び石戦略」に沿って日本本土を目指していたアメリカ軍が硫黄島に攻め寄せた。もともと硫黄島は計画に含まれていなかったが、沖縄攻略の前段階であったフィリピン攻略が予想以上に早く終わったことから、マリアナ諸島と日本本土の中間にある硫黄島の攻略が決まった。そのころ、日本本土への爆撃はマリアナ諸島から行われていたが、硫黄島に日本軍の早期警戒所があって、空襲前に本土へ警戒連絡を行っていた。硫黄島の占領によって、日本は空襲を警戒できなくなり、アメリカ軍はトラブルを起こした爆撃機を緊急着陸させる場所を確保することができた。 硫黄島は日本軍によって要塞化されていた台形の火山島で、上陸した海兵隊に多くの損害を与えた。島でもっとも目立つのは南半分をしめている高さ166 mの摺鉢山である。硫黄島は当時から東京都の一部であったことから、同島の占領は連合軍による最初の日本本土占領となることを意味していた。その意味で日本にとっても硫黄島は絶対に失ってはならない島であった。 戦略的には島を見渡せる摺鉢山がもっとも重要な拠点であった。日本軍は摺鉢山に砲台を築いて上陸部隊を砲撃した。日本軍は硫黄島防衛のため、半地下式の掩蔽壕とトーチカをつくり、それらを結ぶ地下トンネルを掘削した。このためアメリカ軍が手榴弾や火炎放射器でトーチカ内の日本兵を倒しても、トンネルを通りまた新しい兵が入ってきて抵抗を続けるというパターンが繰り返された。アメリカ軍は最初に摺鉢山を目標に兵力を集中し、4日間の攻防のすえ2月23日にこれを制圧した。摺鉢山制圧後も日本軍の抵抗は終わらず、最終的に31日後に日本軍の組織的な抵抗がおわり、硫黄島の「制圧」が宣言された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「硫黄島の星条旗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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