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硫黄島の戦い[いおうとうのたたかい]
硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい〔「硫黄島」の呼称は、戦前から「いおうとう」「いおうじま」の2種類が混在しており、日本軍は主に「いおうとう」を使用していた。2007年6月18日以降は「いおうとう」が国土地理院の正式な地形図での表記となった。アメリカ軍による「Iwo Jima」の呼称は旧海軍作製の海図のローマ字表記に基づくと考えられる。アメリカは今後も「Iwo Jima」の表記を歴史的理由で維持するという。出典:小笠原諸島地名事典 Place Names 〕、, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に東京都小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦 (Operation Detachment)。 == 概要 ==
1944年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧し終えたアメリカ軍は、日本本土攻略に向けた次の攻撃予定として、同年12月20日にフィリピンのレイテ島(のちのレイテ島の戦い)に上陸、翌1945年2月20日にはルソン島(のちのルソン島の戦い)もしくは3月1日に台湾上陸、との作戦計画を立案したが、台湾か沖縄かはこの時点では決定されていなかった。しかし、アメリカ海軍太平洋艦隊司令部ではすでに1944年9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は補給能力の限界に達していることと日本本土への影響力行使の観点から、意味がないと判断した。 レイテ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫したため戦闘能力はなくなり、台湾攻略の戦略的な価値が下がったが、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。その中、陸軍航空軍のヘンリー・アーノルドがより効果的な日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略の意義を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸(のちの沖縄戦)への前提としてアメリカ軍全体の方針となった〔Joint Chiefs of Staff 713/18, "Future Operations in the Pacific", 2 October 1944.〕。 これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本陸軍の激しい抵抗を経てアメリカ軍は同島をほぼ制圧、3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。 日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。大東亜戦争(太平洋戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等〔他に捕虜・行方不明・疾病なども含む〕の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「硫黄島の戦い」の詳細全文を読む
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