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市辺押磐皇子[いちのへのおしはのみこ] 市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、? - 安康天皇3年(456年)10月)は、記紀・『風土記』に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。磐坂皇子(いわさかのみこ)・磐坂市辺押羽皇子・天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしはのみこと、以上『日本書紀』)・市辺之忍歯王・市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ、以上『古事記』)・市辺天皇命(いちのへのすめらみこと、『播磨国風土記』)とも。履中天皇の第1皇子で、母は葛城葦田宿禰(あしたのすくね)の女・黒媛である。また、顕宗天皇・仁賢天皇(・飯豊青皇女)の父、安康天皇・雄略天皇の従兄弟に当たる。 == 概要 ==
押歯(八重歯)で、『古事記』では歯の先端が3つに割れていたことから、この名があるという。 安康天皇3年(456年)8月、安康天皇が眉輪王によって暗殺されたが、天皇は生前、押磐皇子に王位を継承させ、後事を託そうとしていた。かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人(とねり)の佐伯部仲子(さえきべのなかちこ)をも殺して、皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えた。 清寧天皇3年(482年)億計 ・弘計は宮中に迎えられ、顕宗天皇元年(485年)に弟の弘計王が即位。弘計は置目老嫗(おきめのおみな)の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、改めて陵を築いた。この時、皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、相似せた2つの陵を造ったとされる。現在、滋賀県東近江市市辺町に存する円墳2基(古保志塚という)はそれと伝えられ、宮内庁の管理下にあるが、かつては同市木村町のケンサイ塚古墳(円墳・消滅)や妙法寺町の熊の森古墳(前方後円墳)を皇子墓に比定する異説もあった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市辺押磐皇子」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ichinobe-no Oshiwa 」があります。
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