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社共共闘[しゃきょうきょうとう] 社共共闘(しゃきょうきょうとう)とは、1960年代から70年代にかけて日本で、日本社会党(現在の社会民主党)と日本共産党の共闘により革新政権を目指そうとした政治方針である。より幅広く「革新共闘」「革新統一」とも。 ==概要== 基本的に首長選挙における協力で、組織協定、候補者協定、政策協定の3本の合意が基本であった。また、妨害勢力を参加させないことを協定のなかで明確にする場合もあった。そのため、新左翼からは、既成左翼の呼称で批判された。支持者の量的拡大を目指し、妨害勢力の排除を明記し、突出した闘争を自粛したためである。 目標は、原則として首長選挙の勝利や議会で多数派を占めることに置かれ、武装闘争を志向する者は、体制側の挑発者として共闘の対象とはしなかった。たとえば成田闘争でも、社会党は千葉県知事と紳士協定を結び、共産党はトロツキスト批判をすることで、1978年の管制塔占拠にいたる闘争からは一線を画していた。 国政選挙における協力は進まず、参議院沖縄県選挙区と、1977年の参議院選挙における宮城県選挙区以外は、統一候補はできなかった。そこには、社会党のなかでの、社公民路線を志向し、共産党との共闘に消極的な流れの存在と、向坂逸郎を理論的リーダーとする社会主義協会が共産党と論争をつづけていたことが影響している。社会主義協会は全野党共闘を主張し実質的に社共共闘推進派でもあった。 1977年の協会規制により社会党内で右派勢力が台頭したこと、1979年の東京都知事選挙で、社共推薦の太田薫・総評議長が落選したこと、1980年の社会党と公明党との合意文書のなかで共産党を協議の対象からはずすと明言したことにより、社共共闘は事実上終焉したと言われる。社会党にとって、野党の共闘は民社党・公明党を排除するものではなく、両党を併せた全野党共闘を掲げていた。しかし、民社党・公明党は共産排除を求め、また共産党にとっても、反共を掲げる民社党は敵であり、やはり同党の排除を要求していた(共産党は、公明党の母体の創価学会とは協調を試みた時期もあるが、失敗している。創共協定参照)。結果、社会党が公民両党の要求を呑んで1980年1月に「社公合意」が成立し、自社公民相乗りオール与党体制が確立した後、両者の対立は決定的となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「社共共闘」の詳細全文を読む
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