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神の像と肖(かみのぞうとしょう)とは、正教会の「人間とは『神のイコン(像)』である」とする人間観の基礎となっている重要な概念。旧約聖書の創世記1章26節・27節において、神は自身の「像」と「肖」に従って人を創造したとされる記述があることを基にする〔世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan (日本正教会公式ページ) 〕。 西方教会の原罪論・全的堕落説と対比され、正教会と西方教会の間の重要な相違点となっている。 * 像…〔古典ギリシャ語再建音転写:「エイコーン」、現代ギリシャ語転写:「イコン」〕, 〔〕, * 肖…〔古典ギリシャ語再建音転写:「ホモイオーシス」、現代ギリシャ語転写:「オミオシス」〕, 〔〕, 「神のかたち」「神の似姿」等と訳されることもあるが〔イラリオン・アルフェエフ p47 - p48, 2004〕、日本正教会訳聖書では同種の語彙につき「像」と「肖」の訳語を用いており〔大斎第1週 (三歌斎経) 〕、他の日本正教会関連の出版物でもこの訳語が用いられる事が多い〔イオアン高橋保行 p258 - p259, 1980〕〔カリストス・ウェア p16 - p17, 2003〕。 == 像・肖の概念 == === 概要 === 神が言を以て、「像」と「肖」に従って人(男女)を造ったことが、上の創世記1章26節・27節に記されている。 「神の像」()は「神に近づくための力や可能性や出発点」を、「神の肖」()は「その実現や完成」を意味すると説明される。すなわち、人間は初めから完璧な者としてではなく、成長するものとして創られたとされる〔。 神の像は堕罪によって破損し、神の肖は堕罪によって失われたが、神の像は破損しつつも消滅せずに残っている。そのため、どんな人間でも神の像(イコン)であり続け、一人ひとりの人間はかけがえのない尊い存在であると正教会では理解される〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神の像と肖」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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