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神代 辰巳(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 1995年2月24日)は日本の映画監督。佐賀県出身。 == 来歴 == 徴兵逃れのために九州帝国大学付属医学専門部に入学するも中退し、早稲田大学文学部を卒業。松竹の助監督を経て日活へ移籍。助監督時代に東宝のスター女優だった島崎雪子と結婚するも、10年ほどで離婚。デビュー作となった『かぶりつき人生』は、日活の衰退期とその内容もあってか、一般作としては日活史上最低の興行失敗となった。そのため、この後の日活の一般作の監督オファーはなかったが、ロマンポルノ路線を敷いた日活のエース監督として数々の名作を残す。特に、絵沢萌子は、彼の作品の常連女優であった。「青春の蹉跌」以降は、一般映画でも評価の高い作品を連打してぐんぐん盛名を高め、のち日本映画の主流を成すことになる、「ポルノ、ピンク出身の巨匠」の、先駆的存在となる。 中でも萩原健一は、自分の主演作『もどり川』へ監督のオファーを願い出るほどのファンであり、桃井かおりも「くまさん」と呼び、親しんでいた。 身だしなみには気を遣う方でなく、桃井かおりによれば、「歯を磨かないことなど当たり前」だったほどである。しかし、「ロマンポルノの帝王」という称号が一人歩きしてしまったことには、大っぴらにしなかったが心を痛めていたという。 1983年(昭和58年)に肺気胸で入院、肺結核に感染しており、片肺の機能はほとんど失われ、酸素ボンベを携えての生活を余儀なくされたが、それ以後も入退院を繰り返しながら監督業を続けた。 車椅子に乗っての撮影となった『棒の哀しみ』は、数々の映画賞を受賞したが、1995年(平成7年)2月8日、ブルーリボン賞授賞式の5日前に急性肺炎で有隣病院に入院。同年2月24日に息を引き取った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神代辰巳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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