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神懿王后[しんいおうこう かんし] 神懿王后韓氏(しんいおうこう・かんし/シヌィワンフ・ハンシ、至元3年(1337年)9月 - 洪武24年9月23日(1391年10月21日))は、後の李氏朝鮮初代王・李成桂の第1夫人。 == 生涯 == 韓氏は高麗後期、現在の北朝鮮咸鏡南道・永興で生まれ、15歳のころ、2歳上の李成桂と結婚し6男2女を儲け咸興で暮らした。夫は後に開京(かいきょう、現:開城)で第2夫人となる康氏(後の神徳王后)を娶り、彼女は「郷妻」(きょうさい 故郷の妻の意味)と呼ばれ、康氏は「京妻」(きょうさい 都に住む妻の意味)と呼ばれた。これは当時、高麗が一夫多妻制をとった風習であった。だが、韓氏は有力豪族であった康氏と比べ身分が低かった。 1388年、李成桂が遼東征伐に向かう途中、鴨緑江の威化島で引き返す「威化島回軍」という事件を起こし政権を奪取。そのころ彼女は避難し、5男・芳遠(のちの第3代王・太宗)が守った。政局の混乱で心を痛め、1391年、55歳で病没した。朝鮮建国の1年前であった。彼女は節妃(せっぴ)と追尊され、第2代王・定宗(韓氏の次男・芳果)即位で神懿太王后と追尊された。しかし、朝鮮中期の文臣、宋時烈が不適切と上訴し、神懿王后と修正された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「神懿王后」の詳細全文を読む
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