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神谷卓男 : ウィキペディア日本語版
神谷卓男[かみや たくお]

神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日1872年1月18日) - 1929年昭和4年)10月22日)は、明治から昭和初期にかけての官僚政治家京都府出身。
== 経歴 ==
明治4年12月9日1872年1月18日)、京都府与謝郡宮津町(現在の宮津市)に生まれる〔『東京名古屋現代人物誌』155-158頁、〕。京都府士族神谷広生の長男〔『人事興信録』第7版か153頁、〕。京都中学校を経て同志社に入り〔、1892年(明治25年)6月卒業〔『名古屋市会史』第1巻596頁、〕。翌1893年(明治26年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学にそれぞれ2年間在学した〔。
帰国後は日本新聞の記者となるが、公爵貴族院議長近衛篤麿の知遇を得て退職、近衛の秘書官に転じた〔。1904年(明治37年)に近衛が没すると大韓帝国に渡り、一進会顧問として活動する〔『現代名士人格と修養』277-278頁、〕。その後政府に招聘され財務官となり、次いで咸鏡北道書記官となる〔『歴代閣僚と国会議員名鑑』513頁〕〔。韓国併合後も朝鮮総督府平安北道内務部長などを歴任した〔。1910年(明治43年)12月、従六位に叙される〔。1913年大正2年)1月、依願により免官〔。
退官後、1913年1月18日付で名古屋市助役に就任し、1917年(大正6年)1月の任期満了まで在職した〔『名古屋市会史』第1巻593頁〕。在任中の市長は阪本釤之助『名古屋市会史』第1巻584頁〕。阪本は「八方美人」型であったのに対し助役の神谷は威厳を示す「蛮勇」型であって、役所はいわゆるかかあ天下の様であったという〔。
助役退任後、1917年4月の第13回衆議院議員総選挙に無所属で京都府郡部選挙区より立候補して当選、1期のみ衆議院議員を務めた〔。当選後は立憲国民党に加わり〔『自第1回議会至第48回議会 衆議院議員党籍録』衆議院事務局、1924年。〕、普通選挙を主張するも、1919年(大正8年)に党議で否決されたため脱党〔『普選運動史及普選の心得』42頁〕。純正国民党を結成したが、ほどなくして解散し、再び無所属となった〔〔青野権右衛門『日本政党変遷史』安久社、1935年、331頁〕。
議員在任中の1918年(大正7年)12月、名古屋電灯取締役に就任する〔『稿本名古屋電灯株式会社史』236頁〕。同社は名古屋市の電力会社で、当時福澤桃介が社長、下出民義が副社長を務めていた。翌1919年(大正8年)10月には支配人出身の角田正喬とともに常務へ昇格した〔。1921年(大正10年)10月合併により関西電気常務取締役に就任〔『東邦電力史』82-86頁〕。経営陣が福澤から松永安左エ門らに交替し、関西電気改め東邦電力となった後も引き続き常務に在任するが〔『東邦電力史』108-109頁他〕、1923年(大正12年)に常務は辞任〔『東邦電力史』巻末役員在任期間一覧表〕、1927年(昭和2年)5月には取締役からも退いた〔「東邦重役改選」『東京朝日新聞』1927年5月29日付朝刊〕。なおこの間、1922年(大正11年)2月から1925年(大正14年)12月にかけて、東邦電力傘下の鉄道会社九州鉄道の監査役も兼任していた〔『西日本鉄道百年史』557頁〕。
1929年(昭和4年)10月22日死去〔、満57歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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