翻訳と辞書
Words near each other
・ 福地惇
・ 福地慎太郎
・ 福地政次郎
・ 福地教光
・ 福地村
・ 福地村 (岐阜県)
・ 福地村 (愛知県)
・ 福地村 (秋田県)
・ 福地村 (青森県)
・ 福地桜痴
福地櫻癡
・ 福地氏
・ 福地泡介
・ 福地温泉
・ 福地源一郎
・ 福地経人
・ 福地翼
・ 福地聡
・ 福地茂雄
・ 福地誠夫


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

福地櫻癡 : ウィキペディア日本語版
福地源一郎[ふくち げんいちろう]

福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日1841年5月13日) - 明治39年(1906年1月4日)は、幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト作家劇作家・政治家。衆議院議員。幼名は八十吉(やそきち)。号は櫻癡(おうち、新字体:桜痴)。福地 桜痴(ふくち おうち)として知られる。執筆に吾曹子の名を用いて、吾曹先生とも呼ばれた。
==生涯==

===幕府時代===
天保12年(1841年)、長崎新石灰(しっくい)町で儒医・福地苟庵の息子として生まれた。幼時から長川東州について漢学を学び、15歳の時に長崎で通詞名村八右衛門のもとで蘭学を学ぶ。安政4年(1857年)に海軍伝習生矢田堀景蔵に従って江戸に出た。以後、2年間ほどイギリスの学問や英語森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなった。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。文久元年(1861年)には柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始める。
慶応2年(1866年)3月に帰国後、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取として蔵米150俵3人扶持を与えられ、旗本の身分に取り立てられたが、開国論の主張が攘夷派に敵視されて不平に堪えず遊蕩に耽った。
慶応3年(1867年)10月の大政奉還の際には、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出したが、その意見の妥当性は認められたものの、慶喜の意向が判然としない事などの理由から容れられる事が無かった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「福地源一郎」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fukuchi Genichiro 」があります。



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.