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福山健偉[ふくやま けんい] 福山 健偉(ふくやま けんい、1831年(天保2年)〔『宮崎県史 史料編 近・現代1』12頁。〕 - 没年不詳)は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務官僚・銀行家。宮崎県権令。通称・精蔵〔『宮崎県大百科事典』790頁。〕。 ==経歴== 薩摩藩士・福山清蔵安暉の息子として生まれる〔。万延元年(1860年)沖永良部島郡方書役代官付となり、流刑中の西郷隆盛を監視する役柄であったが、親しく教えを受けた〔『日向市史 史料編 美々津県庁文書1』28-29頁。〕。 明治政府に出仕し、明治4年12月18日(1872年1月27日)美々津県参事に就任〔〔従来は明治5年1月12日とされていた。『宮崎県史 史料編 近・現代1』11頁など。〕。明治5年2月13日(1872年3月21日)美々津に着任〔。1873年1月15日、美々津県と都城県を合併して宮崎県(第一次)が設置され、引き続き参事を務めた〔〔『宮崎県史 史料編 近・現代1』17頁。〕。福山は西洋建築の宮崎県庁舎を建築する許可を大蔵省に求めたが、建築費が高額となるため認められず、着工自体もなかなか認められなかった。そのため、福山は国の許可を得ないまま、1873年1月11日、宮崎郡上別府村(現宮崎県庁所在地)で着工し、1874年2月7日に落成させた。内務省は1875年4月2日に庁舎建築を事後承認したが、同年5月、福山には罰金4円50銭の支払いが命ぜられた〔〔『宮崎県史 史料編 近・現代1』20-21頁。〕。同年8月2日、権令に昇進〔『宮崎県史 史料編 近・現代1』18頁。〕。1876年8月21日、宮崎県が鹿児島県に編入され免官となる〔〔。 その後、鹿児島に帰郷して、政府要人との人脈を持つことなどから、1879年7月、第百四十七国立銀行の頭取に就任し、1891年3月まで在任した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福山健偉」の詳細全文を読む
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