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福岡大空襲(ふくおかだいくうしゅう)は、1945年6月19日から翌6月20日までアメリカ軍により行われた空襲。福岡県福岡市の市街地を標的にした。これにより1,000人以上が死亡・行方不明となった。 == 概要 == アメリカ軍の戦略爆撃の一環として計画。マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊239機は九州を北上して福岡上空に到達。福岡市には高射第4師団博多区隊が駐屯(本部:東平尾)し、高射砲6門で編成された中隊が市内各地に配置され、さらに独立照空第21大隊(本部:筑紫郡春日村、現春日市)が4ヵ所に配置されていた〔防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書57 本土決戦準備(2)九州の防衛』 朝雲新聞社 1972年〕。さらに、中央区輝国や糸島郡高祖山にも高射砲陣地があったという証言がある〔川口勝彦・首藤卓茂『福岡の戦争遺跡を歩く』 海鳥社 2010年 ISBN 978-4-87415-786-2〕。敵機襲来と同時に高射砲陣地が応戦するも、友軍機の迎撃は一切無く、また九州兵器(現・渡辺鉄工所本社工場)や博多港など市の北部と東部に防空機能を位置づけていた上、南九州の防空のために一部の高射砲部隊が転戦しており、さらに肝心の高射砲が射高が低く命中しなかったため、福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊には効果なく、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。 博多や天神を中心に爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占め、簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼するなど、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した。そのような中において、1931年に建設された奈良屋小学校(現在の博多小学校の立地)の鉄筋コンクリート製の一校舎は住民の消火活動もあって焼け残り、翌朝から遺体安置所として遺体の身元確認が行なわれた。 避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂。熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた。後日行われた遺体搬出作業には、当時佐世保相浦海兵団輸送班員であった村田英雄も携わった。 上述地域のほか、薬院・当仁・新柳町(現在の清川)・平尾・六本松・田島・姪浜など多数の場所も被災。七隈の九州経済専門学校(現在の福岡大学)は学生が勤労動員で休校状態だったが、図書館を焼夷弾が直撃、蔵書約3,000冊もろとも灰燼に帰した〔福岡大学大学史資料室「福岡大空襲で焼失した図書館」 福岡大学広報課『七隈の杜』第2号 福岡大学 2005年〕。そのため、九州経専は戦後の新制大学昇格の条件に図書館蔵書1万冊があったため、蔵書の確保に学生までが奔走しなければならなかった〔福岡大学大学史資料室「大学昇格への第一歩 -戦災図書復旧充実運動-」 福岡大学広報課『七隈の杜』第3号 福岡大学 2006年〕。また脊振山の山裾に位置する早良郡・糸島郡・筑紫郡の村々も爆撃された。これは脊振山の影を博多湾の海岸線と誤認したためであった。このうち糸島郡雷山村(現在の糸島市雷山地区)では30棟が全焼し、8人の死者を数えた。筑紫郡安徳村(現在の那珂川町北部)では、わずか3世帯しかない瀬戸地区が空襲され、うち1世帯の母屋と納屋が焼失した(集落東側の採石場を標的にしたと考えられている〔那珂川町教育委員会 編『郷土誌那珂川』 那珂川町 1976年〕)。 日本軍の施設のうち、福岡城址の西部軍司令部や歩兵第124連隊の建築物に被害が出た。しかし同年5月に滑走路が完成していた席田飛行場(現在の福岡空港)には被害はなく、終戦後の同年10月に米軍板付基地として接収されることとなった。 空襲の翌日、西部軍司令部に収監されていた連合国軍捕虜が報復処刑された。同様の処刑は原子爆弾投下後の8月10日、終戦の8月15日頃にも行われた。 戦災による人的被害のみならず各流の山笠台や法被等が焼失したため、同年の博多祇園山笠は中止となった。終戦後の翌1946年5月25日には「第一回奈良屋復興祭」が開催され、ベニヤ板に太閤豊臣秀吉を描いた子供山笠が焼け野原を舁き回ったが、山笠の本格的な再開は1948年までかかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福岡大空襲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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