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福島第一原子力発電所反対運動(ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょはんたいうんどう)では、2011年3月の事故前から続いて来た、東京電力福島第一原子力発電所の建設や運転に対する反対運動全般について説明する。 *福島第一以外のについては「原子力撤廃」へ。 *福島第二原子力発電所や浪江・小高原子力発電所の反対運動については、各発電所の記事へ。 == 反対運動の誕生 == 計画初期は地元の大半が賛成状態だったとは言え、1960年代より数は少ないながらも懐疑派、反対派は存在していた。 最初期から反対運動活動を行っていたのは社会党の流れをくむ双葉地方原発反対同盟(文献によっては双葉郡原発反対同盟)である。ここで反対運動にとってキーとなるのが、反対同盟初代代表岩本忠夫であった。 岩本は元々双葉町で酒屋を営んでおり、1958年社会党に入党、1963年より1期、双葉町の町議を務めた〔岩本の社会党時代の来歴については〕。町議になって間もなく東京電力が1964年より用地買収を開始し、大熊町との合併話がその頃に持ち上がった。名目は「合併した方が東電への寄付の申し入れもやりやすい」というもので、岩本は裏に東京電力の暗躍を感じたという。なお、岩本が寄稿した『月刊社会党』では革新系の活躍にのみ触れられているが、朝日新聞によると実際には当時の双葉町長、田中清太郎も合併に反対していた。ただ、この一件は岩本にとって原子力発電所(を運営する東京電力)への不信を増すこととなった〔朝日新聞いわき支局が取材した双葉、大熊両町の合併話の顛末については〕(山川充夫は合併構想が立ち消えたのは1967年頃としている)。 後に岩本に代わって反対同盟代表となる石丸小四郎は、元々秋田出身で1964年に勤務先の郵便局同僚との結婚を機会に福島県に異動した。その頃は既に用地の取得が大詰めを超えており、また当時は社会党も原子力発電に賛成していた一方で、そのリスクについても知られていなかったという。石丸は郵便局の組合活動をしていたが、その折に当時青年会上がりで社会党の双葉地区委員長として活動していた岩本の言葉に感銘し、1965年頃から反対運動の手伝いもするようになった。反対同盟結成前は社会党として反対運動をしていたが、党の上層部は「地区でそういう運動があるならやっても良いよ」というスタンスだった〔双葉地方原発反対同盟結成前の活動については〕。 岩本忠夫が1975年、『月刊社会党』にて建設初期の反対運動について回顧した際には と反省の弁を述べている。また、発電所を誘致した地元に対して当時の地元の貧窮性を指摘し、 と観察している〔岩本が反対同盟時代に回顧した誘致時の地元および反対派の状況については〕。なお、岩本は「初めからあれもダメだ、これもダメだという全面的否定という立場ではなくて、具体的な面で一つ一つの積み重ねから原発に対して否定的な考えを持たざるをえないようになったということですよ」と自らの反対姿勢のニュアンスについて説明している。 高槻博によれば、浜通りなかんずく夜ノ森周辺に本格的な反対運動が起こった時期は、福島第二原子力発電所(楢葉・富岡)と浪江・小高原子力発電所の計画が発表された1968年からであるという。その後、1971年から1973年にかけて、浜通りの各原子力発電所と広野火力発電所計画に対しても地元の教職員を中核として住民団体が幾つか結成された。本発電所では「大熊、双葉の環境を良くしよう会」が相当し、各地元組織は合従連衡して1973年9月に「原発・火発反対福島県連絡会」という県レベルの組織をつくった〔地元住民団体の結成については〕。 岩本、石丸等社会党系の労働組合などはこれとは別に「双葉地方原発反対同盟」を同時期に結成した。恩田勝亘によれば構成員は小中学校の教員や労組関係者となっている。初代委員長は上述のように岩本忠夫で、1971年には県議に当選していた。反対同盟を結成したものの、対象が早期に建設された発電所であるため、市民運動としての下地はゼロに等しく、初期は社会党の他全日本農民組合連合会、日本社会主義青年同盟、双葉地方労働組合協議会など総評路線の延長上に反対運動を行っていったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福島第一原子力発電所反対運動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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