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福永祐炳 : ウィキペディア日本語版
福永祐炳

福永 祐昺〔飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯(宮崎県立図書館、1977年)P.65)。記事名の「炳」字は代用表記(炳の異体字には「㶮」「丙」「昞」「昺」がある→こちら を参照)。〕(ふくなが すけあき)は、戦国時代武将日向伊東氏の家臣。
小身の家柄の出身だが、娘が主君・伊東尹祐に見初められ祐充祐清祐吉を生んだことで一躍当主家の外祖父となり、家老の地位を得た。尹祐の死後、若年の祐充が家督を継ぐと専横の振る舞いが多くなり、その有り様は「威勢国中に肩を並ぶる人もなし」とまで評され、譜代家臣団との深刻な対立を招いた。
とりわけ山間部の小河領主、嶽の米良氏を被官としたことは稲津氏、落合氏などからの反発が強く、享禄4年(1531年)には都於郡城下において「若き衆」と号する一揆との戦闘行為にまで発展した。祐炳は当主の威光を背景に「守護方」を称して若き衆を弾圧し、そのために家中からは落合兼由稲津重由右松祐宣川崎良代ら多くの有為の士が失われた。
こうして反対勢力は除かれ、その権勢はいよいよ増したかに思われたが、天文2年(1533年)に祐充が早世すると、福永氏の専横を憎む祐充の叔父・伊東祐武が反乱を起こし、祐炳は3人の子と共に自害に追い込まれた。
== 脚注 ==

category:戦国武将
category:日向国の人物
category:自殺した人物

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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