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福澤諭吉 : ウィキペディア日本語版
福澤諭吉[ふくざわ ゆきち]

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体福沢 諭吉天保5年12月12日1835年1月10日)- 明治34年(1901年2月3日)は、日本武士中津藩士のち旗本)、蘭学者著述家啓蒙思想家教育者慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。昭和59年(1984年)から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。
(はん)。子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」〔慶應義塾編・発行『慶應義塾百年史 中(前)』、1960、p.507〕。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)〔余が印章に三十一谷人の五字を刻 〕。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった〔(21頁)〕。
現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的である〔学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、理念と歴史 を参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。〕。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。
== 経歴 ==

=== 出生から中津帰藩、長崎遊学 ===

天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区福島1丁目、通称 ほたるまち)にあった豊前国中津藩(現・大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男(末子)として生まれる。諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。
父・百助は、鴻池加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった〔百助が所持していた伊藤東涯の『易経集注』という書は福澤家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。〕。
百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤家に復する。体格が良く、当時の日本人としてはかなり大柄な人物となる(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ〔明治生命による〕)。
天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現・大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいの溌剌とした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。
5歳頃から藩士・服部五郎兵衛漢学一刀流の手解きを受けはじめる。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読み漁り、漢籍を修める。8歳になると、兄・三之助も師事した野本真城白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。この頃には先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問の傍ら立身新流居合術を習得した。
福澤の学問的・思想的源流に当たるのは、亀井南冥荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた〔福沢諭吉と亀井学の思想:福沢における「縦に慣れたる資力」とは何か 〕。
したがって、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまで遡ることが出来る。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程の中にも、この学統が原点にある。
安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、例えば村田蔵六(後の大村益次郎)・本島藤太夫菊池富太郎等が来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。傍ら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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